PR

芸術至上主義の現在。制度論と道徳・倫理主義の台頭

芸術,美学
記事内に広告が含まれています。

コンテンツ

芸術至上主義の限界

 19世紀後半の唯美主義や「芸術のための芸術」運動に端を発する素朴な芸術至上主義、すなわち徹底的自律主義は、作品の感性的性質や形式的自足性のみに美的価値の根拠を求める立場ですが、20世紀後半以降の美学理論の精緻化に伴い、その存在論的および評価論的な前提は根本から解体されるに至りました。

 現代の分析美学において素朴な芸術至上主義が退けられた主因は、芸術の定義をめぐる制度論的展開と、作品評価における美的価値と倫理的価値の相互関係を解明する認知主義的道徳主義的アプローチの確立という二つの大きな論理的転換に整理できます。

制度論の台頭

 まず存在論のレベルにおいては、アーサー・ダントーやジョージ・ディッキーらによって提唱された制度論的美学が、「何が芸術であるか」を決定づける条件を作品内部の自足的な美的属性から、芸術界(アートワールド)と呼ばれる社会的文脈、理論的背景、および解釈の制度へと移し替えました。

 ダントーの「芸術界」概念やディッキーの「資格付与」論は、アンディ・ウォーホルの『ブリロ・ボックス』に代表されるように、市販の箱と視覚的に区別がつかない日常物がなぜ芸術作品になり得るのかを説明する過程で、作品が持つ単なる物理的・形式的性質(素朴な芸術至上主義が絶対視した要素)だけでは芸術の条件を満たせないことを論証しました。

 これにより、作品をあらゆる社会的文脈や歴史的制度から切り離し、それ単体で完結した美の客体として鑑賞するという徹底的自律主義のモデルは、美学的な存在論の基礎を喪失することになったのです。

無関係主義の限界

​ さらに評価論のレベルにおいては、作品の持つ倫理的属性と美的価値の関係性をめぐる議論が著しく高度化しました。素朴な芸術至上主義が前提とする倫理的評価と美的評価は互いに独立しており干渉し合わないという無関係主義(Radical Autonomism)に対し、現代美学の主流派は価値の相互浸透を主張する道徳主義や倫理主義へとシフトしています。

 その代表格であるノエル・キャロルの穏当な道徳主義(Moderate Moralism)は、物語芸術などを鑑賞する際、作品が観客に対して要求する感情的倫理的レスポンスの成否に着目します。キャロルによれば、作品が倫理的にいびつな視点や不当な感情態度を観客に要求する場合、観客は心理的・道徳的な抵抗からその要求された感情を抱くことに失敗します。この感情的エンゲージメントの失敗は単なる観客の主観的な不快感にとどまらず。作品が鑑賞者に意図した効果を引き出すことの構造的な失敗、すなわち作品としての美的欠陥を直ちに構成します。ここでは、倫理的な負性が作品の美的成功を直接的に阻害する理論的メカニズムが明確に架橋されています。

より強い倫理主義

 このキャロルの議論に対し、ベリ・ゴートの倫理主義は、他の条件が等しければという条件のもとでその関係をさらに普遍化し、作品に表現された道徳的態度の優劣それ自体が直ちに美的長所あるいは美的欠陥に変換されると主張しました。倫理的欠陥がどのような条件で美的欠陥になるのかという境界線をめぐっては、キャロルの「応答の失敗を経由する」という限定的な立場と、ゴートの「直接的に変換される」という直結的な立場の間で細部議論が続いていますが、両者に共通しているのは、作品の倫理的・認知的内容がその美的評価の不可分な構成要素であるという「価値の相互作用論」の全面的な承認です。

 このように、現代美学においては、制度論によって「作品の自足的純粋性」という存在論的前提が否定され、穏当な道徳主義や倫理主義によって美と倫理の絶対的断絶という評価論的前提が崩壊しました。結果として、素朴な芸術至上主義は自足した理論としての有効性を完全に失い、現代の美学体系の中では過渡的な歴史的思想の一つとして位置づけられるに至っています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました