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古典的リアリズム
古典的リアリズムについて。
古典的リアリズムは、国際社会を「無政府状態(アナーキー)」=国を統治する上位権力が存在しない世界とみます。国家は自己保存(生存)を最優先とする合理的アクターで、安全保障ジレンマ(軍拡や同盟が相互不信を生む)が避けられません。
人間は本来的に権力欲求を持ち(ホッブズ的人間観)、国家もその延長で、力による均衡を求めます。軍事力、パワーバランスが平和の基盤で、「平和=力の均衡」です。国際機構や国際法は強国の道具で、力関係が変われば制度も無力化します。
トゥキディデス、マキャヴェリ、ホッブズに源流があり、モーゲンソーなどがその論者です。
古典的リベラリズム
古典的リベラリズムについて。
無政府状態を前提としつつも、国際法・国際機関・規範・経済相互依存などにより協力は可能とします。国家は安全だけでなく、経済発展・国際協調・民主的価値の拡大も重視します。国内政治や制度、国際機構が国際関係に大きく影響すると考えます。
人間は理性的で協力可能(ロック的人間観)で、国家も国内の民主主義や経済関係を通じて平和的になれるとします。
民主主義国家同士は戦争しにくい(民主的平和論)、経済的相互依存や国際機構の役割が戦争を抑制するとします。国際制度は国家間の取引コストを下げ、協力を持続させる仕組みで、NGOや国際世論も国際関係に影響し得るとします。
ネオリベラリズム/ネオリアリズム
両者はネオリアリズム、ネオリベラリズムとしてさらに発展しました。
ネオリアリズムとネオリベラリズムはいずれも、国際社会を無政府状態(アナーキー)とみなし、国家を主要な行為主体と考える点では共通している。しかし両者は、この無政府状態のもとで国家がいかに行動し、協力がどの程度可能であるかという点で大きく異なる。
ネオリアリズム(ケネス=ウォルツに代表される)は、国際政治の構造そのものが国家の行動を規定すると考えます。すなわち、中央権力の欠如は各国を「自助」に追いやり、安全保障を最優先課題とさせます。そのため、協力は常に裏切りやパワーバランスの変動によって不安定化し、制度や国際機関は国家間の力の分布に従属するものにすぎず、ここでの権力は主として軍事力を中心とする「ハードパワー」として理解されます。
ネオリベラリズム(ロバート=キオハネやジョセフ=ナイら)は、無政府状態が存在しても国家間協力は十分に可能だと主張します。その鍵は、国際制度が取引コストや不確実性を低減し、裏切りの誘因を抑える点にあります。また、国家の利益は安全保障だけでなく経済、環境、人権といった多元的な領域に広がっており、相互依存が深まることで戦争の合理性は低下します。さらに権力の資源は軍事だけでなく、経済力や規範、情報といった「ソフトパワー」も含めて考慮されます。
ネオリアリズムが「国際政治は究極的にパワーゲームであり、制度は二次的」とみなすのに対し、ネオリベラリズムは「制度や相互依存を通じて安定した協力が可能」とみなす点で両者は対照的です。
両者の評価
冷戦後の現実をみれば、軍事的な力の分布だけでは説明できない現象(EU や WTO の制度的安定、環境ガバナンス、多国籍企業やNGOの影響)が増えました。こうした現象を理解するうえで、制度論的ネオリベラリズム(キオハネ的な制度分析やナイの「ソフトパワー」論)は、リアリズムよりもはるかに説明力が高いです。つまり「なぜ協力が継続するのか」「なぜ弱小国でも影響を持てるのか」といった問いに対しては、制度論的枠組みのほうが有効です。
ただし、説明枠組みとしての優位性と、規範的議論としての必要性は別です。権威主義国家や大国の安全保障行動、勢力圏の拡大といった場面では、リアリズム的な見方、「最終的にはパワーで秩序が決まる」という前提が政策議論では強い説得力を持ちます。
そこでも、ネオリベラリズムに内在して、そうした規範や説明を考えることが可能です。
権威主義国家
ネオリベラリズム(制度論的自由主義)は「国家の行動は単一のユニットとしての合理計算」ではなく、国内の多元的アクター(企業、市民、官僚、政党など)の選好が制度を通じて反映される とみます。その選好の総合結果が国際制度を媒介して現れ、協力の持続や相互依存が説明されます。
しかし権威主義国家では、国内の多元的な選好が自由に反映されません。結果として、ネオリベラリズムの前提(複数アクターの利害が制度に映し出される)が 制度的に閉ざされています。そのため、国際制度への参加はあっても、国内選好の多元性に基づく協力的行動は期待しにくいです。
ネオリベラリズムの説明枠組みをそのまま適用すると、「権威主義国家では制度の効果が限定的である」 という含意が生まれます。この含意は「権威主義国家に対してはパワー・バランスや抑止といったリアリズム的な手段が不可欠だ」という規範的議論へ接続できます。言い換えれば、ネオリベラリズムの制度論を説明的に用いると、権威主義国家に対してリアリズム的規範が要請される、という構造になります。
そして中国など、権威主義国家はネオリベラリズムが協調の前提とする多元的な選好表出の経路が閉じてるために、変数が固定された例外事例として、エリートを主体とするハードパワーをシグナルにする擬似的なリアリズム的前提で動く事が多いといえます。また集団安全保障体制&国際法の強制力の希薄さという制度的環境もあって、裏切り行動のコストが低くてサンクションが機能しにくい&協調に安定的インセンティブが起こりにくい(自由主義国と効用関数の違うチキンゲーム化)し、宥和の期待値は構造的にハイリスクローリターンになりがちです。
なのでWW2とか、経験的にも理論的にも(特に短期的な安定を狙うような長期的戦略に一貫性のない場合の曖昧な戦術的)宥和のほうが交渉が失敗する例・経路が多いし、ハードパワーの裏付けによる信憑性あるシグナルの強硬的な態度に対しては、認知戦の次元では対抗的に構えるけど軍事的には萎縮するインセンティブが強い(冒険的行動の期待値が下がる)から、台湾有事とかレッドライン自体は明瞭にしつつも、それ以上は好戦的に構えないほうが抑止戦略としては安定的といえます。
また権威主義国家は単なる実体的利益だけで動かず、ウクライナ侵攻もその例です。
自由主義国家と公用関数が違うから合理性も違って、エリートの中央集権体制の維持が最大の目標だから、国益を犠牲にして正当性レジームのために多大な軍事的経済的コストを払うインセンティブが起こり得ますが、中世の戦争と近い感じです。
このような点はネオリベラリズムによる多元的な選好の変数の調節を噛ませた、近似的リアリズムとしてのモデルがその戦略的コミュニケーションをよく記述します。
参考文献
山田 高敬、大矢根 聡『グローバル社会の国際関係論 新版』



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