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デネットとローティ
ローティが想定している記述の多元性は、一見するとデネットの解釈主義とよく似ているようでいて、実はかなり決定的なところで分岐しています。
デネットの場合、心的状態や意図、信念といった語彙は本質的に解釈的であり、複数の記述が並立しうるという点は強調されるけれども、それらの記述は因果的説明や予測の成功、自然科学的モデルとの接続可能性という観点から、相互に比較されたり、翻訳されたり、場合によっては優劣をつけられたりする余地が残されています。つまり記述は多元的ですが対称ではなく、可換性や横断的翻訳の可能性は完全には放棄されていません。
一方ローティは、カント的・クワイン的な正当化の安定性の強度差や、語彙間の階層性そのものを、表象主義や基礎づけ主義の亡霊として徹底的に疑い、ウィトゲンシュタイン後期の言語ゲーム論と静寂主義をきわめて硬直的に引き受けることで、各語彙を原理的に並列で断絶したものとして扱う傾向が強いです。その結果、素朴心理学の語彙と認知科学の語彙、あるいは虚構的言語行為と科学的語彙といったもののあいだで、因果的拘束力や規範的拘束力、正当化の要請のされ方が明らかに異なっている、というごく自然な指摘ですら、「中立的なメタ記述」を想定しているとして即座に退けられてしまいます。ローティに内在するかぎり、言語ゲームや制度から距離を取ってそれらを比較・説明しようとする態度そのものが、悪しき哲学的病理、すなわち表象主義や基礎づけ主義への後退として診断されてしまうからです。
デネットの行動主義とローティの行動主義(?)
この点で、先達であるセラーズや、そこから強い影響を受けたデネットとの違いはかなり大きいです。セラーズは与件の神話を批判しつつも、それを自然科学との接続可能性を確保するための方法論的な操作として行っており、認知や心的状態を規範的なものとして捉えながらも、その規範性がどのような因果的・機能的プロセスによって支えられているのかを、行動主義的に、あるいは情報処理的モデルによって説明する余地を残しています。
デネットも同様に、志向的語彙をあくまで解釈的なスタンスの産物としながら、そのスタンスがなぜ有効なのかを進化論や認知科学の文脈で説明しようとします。ところがローティの場合、与件の神話批判と基礎づけ批判が誇張的に、しかもほとんど原理論的な禁止事項として継承されるため、認知は語彙使用への習熟、社会的実践への参加としてのみ語られ、そこに科学的モデルを差し挟む余地自体が不要、あるいは有害なものとみなされてしまいます。
その結果、ローティは表向きには行動主義を拒否しながら、実質的には規範的パターンを社会的反復に還元する、奇妙に歪んだ行動主義に近づいてしまいます。基礎づけ主義と表象主義を否定した余白に、セラーズやデネットなら自然科学的モデルを置くのに対して、ローティはその余白そのものを消去してしまうため、認知や説明をめぐる議論が制度内の語彙運用の記述に閉じてしまい、なぜある語彙が予測や操作において成功するのか、なぜ科学的語彙が特定の実践において強い拘束力を持つのか、といった問いが原理的に立てられなくなります。
その意味でローティのプラグマティズムは、ウィトゲンシュタインの静寂主義を節度としてではなく教義として徹底してしまった結果、説明という実践そのものを貧しくし、自然科学との接続可能性を自ら断ってしまっているように見えます。



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