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カントの意味論への批判
カント以降の哲学は、認識の構造と意味の基礎を、主体の内部構造、すなわち表象の形式に求めてきました。その意味で、カントの意味論的前提はきわめて「素朴」でしたが、近代的合理主義の範囲内で自然なものでした。しかし、クワインの登場によって、そのような意味や概念の実在的基盤を前提とする構図は、根本的に疑われます。
クワインの批判の根底にあるのは、意味や指示を「日常言語の中で実在する何か」として扱うことへの懐疑です。彼は『語と対象』や「分析と総合の区別の二つのドグマ」などで、意味の存在論的地位そのものを問題にしました。
クワインにとって、言語とは観察可能な行動と刺激との対応関係としてしか理解できないものであり、意味という中間項を導入する必要も正当性もありません。すなわち、意味とは「観察文」と「刺激同値」によって還元的に記述されるものであり、行動主義的自然主義的分析を超えた形而上学的実在を仮定することはナンセンスです。
この立場は、単なる認識論的懐疑ではなく、意味の実在を否定する存在論的主張です。したがって、彼の「翻訳の不確定性」や「分析/総合の区別批判」は、「我々が意味を完全に把握できない」という認識の限界ではなく「そもそも意味という対象が存在しない」という構造的否定に由来します。ここで意味は、行動的刺激の相関関係のなかに散逸し、世界と語のあいだの中間項としての地位を喪失します。
自然主義の問題
しかしこの徹底した自然主義的転回は、言語や知識を支える実践的基盤をも排除してしまう結果をもたらしました。クワインは、日常言語の存在論的コミットメントを極端に不安定なものとみなし、言語の意味論的基盤を削ぎ落とす一方で、理論全体を一つの検証体系として見るラディカルなホーリズムへと向かいました。それは「分析」と「総合」という区分を否定し、あらゆる知識を理論全体の整合性の問題へと還元する立場です。
ここで失われたのは、基礎づけ主義的な確実性だけでなく、社会的実践や語用論的文脈における意味の安定性でもありました。
このラディカルなホーリズムは、言語的文化的相対主義の萌芽を生んだものの、同時に言語の社会的制度的次元を説明する余地を失わせます。翻訳の不確定性は、意味の不透明さを超えて、人間的相互理解の不可能性へと転化してしまうのです。
つまり、クワインの理論が到達するのはもはや翻訳の「不確定性」ではなく「不可能性」の次元です。
翻訳は不可能?
翻訳の意味論統語論については(Kolmogorov complexity や最尤推定、MDLで)確率空間で形式化されてるし、一般的なその不確定性としての不確実性は本質的断絶でなくて確率的連続量としてのバッファに過ぎず、悲観的に見てる分析哲学者は少ないと思うものの、クワインの翻訳不確定性テーゼはまず前提が極端で、刺激意味モデルってのが入出力だけで認知の記述との接続に耐え得ないラフな局所的還元(意味論特化の素朴で原始的な行動主義)で、そこから得られるデータはコルモゴロフ的複雑性の前提となる豊かな情報構造を十分持たないからどうしようもなくて、偏にそれってモデルの粗さが生む擬似問題だから、クワインに内在すると一寸解消しようがないものです。言語の意味の客観的基盤を求めて帰納的制限を置いた結果あからさまに不合理な帰結を導いてるといます。
そもそもクワインのそれだと不確実性が過剰に見積もられすぎていて、翻訳どころが母語内部での、特に時間論的次元での意味論的安定性や発話の実践的安定性を説明できなくなるし、量化構造が言語体系で安定しないから、存在論的コミットメント自体が難しいです。
後期パトナムの再構成
このクワイン的極限を出発点として、後期パトナムは意味の再構成を試みます。彼はクワインと同じく形而上学的実在論を拒否するものの、同時に意味の社会的・実践的基盤を再評価することで、言語の不確定性を認識論的語用論的次元に再定位します。
後期パトナムにおいて、意味とは語の外的指示対象でも内的心理表象でもなく、共同体的実践の中で成立する規範的機能です。つまり、言語の意味は共同体のなかでの用法によって定まるというヴィトゲンシュタイン的洞察を受け継ぎながらも、それを単なる記述的相対主義に堕させず、語用論的実在論へと昇華させたのでした。ここで「実在」は、社会的制度的枠組みの内部で安定して機能する現実性として理解されます。
この点で、パトナムはクワインが存在論的に抹消した「意味の場」を、社会的実践のレベルで回復したものです。彼にとって意味とは、経験的還元ではなく、言語共同体における相互理解の構造として成立します。したがって、不確定性はもはや世界の構造の不透明さではなく、人間的実践の限界と生成性の側面です。
クワインの分析/総合批判の核心は、「分析的真理」という基礎づけを排除し、知識全体を経験と理論の網目として見る点にありました。しかし、その網目はすべての判断を相互依存に解消してしまい、局所的な確実性を失わせます。これに対しパトナムは、基礎づけ主義を放棄しつつも、社会的実践の中での局所的合理性整合性を認めることで、言語や知識の有用性を操作的に救済する方向へ進みます。
クワイン自身もその後、理論の近似的有用性や形式科学の実在論的強度をある程度回復させ、晩年のクワインは「近似的真理」や「理論的存在者の有効性」を認める方向に傾き、徹底的な自然主義のなかにも実践的妥協をします。



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