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性的嗜好と性的指向。精神医学における性的マイノリティ
性的指向と性的嗜好は伝統的な区分ではあるけど、その境界は自明のものでなくて連続的です。
同性愛やトランスセクシャルが病気でないとされるようになったのは、もっぱら慣習のほうが変わるべきもので、加害性もないからで、他方社会や身体との不一致によって生じる苦痛を医療的に支援するために、トランスセクシュアルは性別不適合としてカテゴリーとして残していて、同性愛の方は削除される形です。
ペドフィリア、小児性愛が病気とされるのは、一般に医療倫理の方面では、望ましくない性向の矯正の装置として精神医学が濫用されることを懸念し、クライアント本人の自由と幸福を尊重し助けることを究極の目標としつつも、他方でパーソナリティ障害の例など、その行動や性格の傾向が他者への加害につながるならば、患者本人に医療的介入を与えたすけるということで、その自由と幸福と伝記的生を尊重しつつ、加害につながる行動性向を治療することが正当化しえて、だから小児性愛障害は本人が治療すべき精神疾患として定義されています。けれどもあくまでそれはその加害性に由来するから、たしかにLGBTQとセクシャリティという点で根本的に違うかというとそうではないかもね。
なぜLGBTQと小児性愛などは相いれないか
確かに性的指向と性的嗜好に関しては伝統的に区分はあるけど重なる部分も大きいし、なんでLGBTQは「小児性愛を性的マイノリティてして認めないの」という素朴な疑問は出てくると思うけど、LGBTQの連帯は、あくまでもそれが法やモラルといった慣習的規範の側が変革し、性を理由とする不正な抑圧の解消を要求する目的を共通の背景とするから成立するのであって、病理としての小児性愛障害は、上記で言った背景を有し、他者の権利のために、医療の介入によりクライアントの自由と幸福と自己物語の洗練との調和の中で当人の側の変革が要請されるから難しいです。
「LGBTQは小児性愛障害を性的マイノリティとして、連帯の対象としてみていない」みたいに言われても、それはLGBTQの連帯の理念からしてやはり難しいです。ただ、LGBTQの側からも、小児性愛や狭義の行動障害としての小児性愛障害者に対して、内心の自由としてのセクシャリティはいかなるものであっても尊重されうるという価値観や、小児性愛や小児性愛障害に対する不正義な扱いへの拒絶、小児性愛や小児性愛者がモラルや法との衝突の中で直面する苦痛などへの共感により、一定の理解や配慮を与えうるとは思うけれど、連帯することは難しいとは思います。
LGBTQは、小児性愛に対して、内心の自由としては尊重し、不公正な扱いに声を上げられるかもしれないけど、連帯しその運動に接続するのは難しいです。
加害性と医療倫理
小児性愛の抱える加害性は、観念的抽象的「悪」ではなくて、具体的な、臨床精神医学の方面で評価しうる、そのような選好、行動性向、信念の束の帰結として見積もられる現実的な加害のポテンシャルですね。
特に小児性愛障害の場合、その選好や信念の積極的自由の行使の帰結として不可避的(同意不可能な対象への欲求のため)に認められ、それは他者の権利との調和と、クライアント本人のミル的徳の側面をも鑑みた自由と幸福の点を考慮したならば、そのような性向へ介入しないことが望ましくないことが言えるから、そこでパターナリスティックな介入と、それを治癒すべき病気と見ることが容認されると思います。
他方、小児性愛障害と括られない、小児性愛傾向は、合意なき反復的小児性愛行為に直結しないものだから先述の加害性は認められないものの、非現実の小児性愛作品の所持、創作自体への是非(表現の自由とそれ自体で加害的な表象の害の衝突)が論点としてあって、加えて消極的な内心の自由としてではなく積極的な自由としてそれが認められうる範囲がごく限定的です。
一方、LGBTQという性的アイデンティティ自体は、そのような選好の積極的自由の実現が合意を伴ったり、他者に向けられるものでなかったり、他者の権利の侵害が不可避的に予見されるものではないから、それ自体に精神医学では具体的な加害性のポテンシャルを認めず、介入し治癒すべき精神疾患とみていません。 つまり医療倫理、精神医療における評価など、置かれた状況が小児性愛障害にしても、小児性愛傾向にしても、LGBTQとの相違が多く、もっぱらその積極的自由の実現の広範な社会的承認と法の変革を要求するそれと共闘できる部分が少ないと思う、というニュアンスです。
確かに歴史的にLGBTQのQにペドフィリアを取り入れようとする向きはあったけど、先述のようにその性的指向や自認を実現すること自体に権利侵害が予見されるわけではなく、それゆえに積極的自由の承認を慣習や法の変革によって追求しようとし、その共通の受難と政治的目的の達成のために連帯するLGBTQと、あくまでも承認されるのが内心の自由として、部分的に消極的自由が認められるばかりで積極的自由を倫理的に容認できず、当人の自制、欲望のコントロール、あるいは医学的介入が要求されるロリコン、小児性愛傾向、小児性愛障害者では、基本的に連帯することが困難なので、「ロリコンやペドフィリアの」「LGBTからの排除は危険」と評価するのは不適切だと思います。
「欲望としてのロリコンやペドフィリアと、実際の性犯罪者は区別すべき」は、確かに単なる選好としてのロリコンやペドフィリアなら、内心の自由として容認できるからそれはそうでしょうし、欲求それ自体が加害や悪ではないでしょうが、それでもその積極的自由のレベルでの実現が不可避的に加害の帰結をもたらし、本人の自律や自制が求められる点は変わらず、それが結局LGBTが理念としてペドフィリアとの連帯が困難で、限定的な内心の自由としての承認に留まる根拠かな、と。
PZNとLGBTQ
小児性愛だけでなく、ズーフィリア、ネクロフィリアなどの性的嗜好を持ち出して、「なぜそれをクイアに入れないんだ」「LGBTQは閉鎖的」みたいなことを言っても、それがQに組み入れられない合理づけ、正当化は、そうペドフィリアの場合と変わらないです。 確かに「名誉感情の侵害」は、むしろLGBTQ排斥の根拠に用いられてきた方便だし、「性的指向と性的嗜好」にかんしてもかなり相対的な区分で、重なる部分が大きいから、この区分を根拠とするのは厳しいから自分もあまりコミットしないけど、「同意に基づく相互的行為実現の可能性」「それ自体で善い行為」などを指標とすれば、普遍的な正義に基づく積極的な自由の実現のための慣習や法の変革を求めるLGBTQの権利運動としての傾向から区別される部分が大いに認められるとは思います。
ズーフィリアだけど、まず私はレーガン、フランシオン的義務論的動物倫理を庇護するけど、この立場はほとんど倫理学の方面では合理的検討が尽くされ、正当性は盤石とされています。結局、人間どうしでは可能になる同意に基づく相互的な性的関係が、人間と動物は客観的な指標に基づいて同意を形成することが著しく困難であることから結ぶことがほとんどできません。 義務論的動物倫理では功利主義のシンガーと違い、哺乳類、鳥類が広く持つ高次の表象推論能力、それに基づく人格的主体性を権利の契機とみており、人間の特に高次のそれは、高次の権利と配慮の根拠でなく、高次の責任の契機と見ています。爬虫類、両生類、魚類が、哺乳類、鳥類同様の意識的苦痛を感じているかは、まだ生物学、解剖学でコンセンサスがなく、権利まで認めるのは難しいと思われるものの、未知の部分があり、信号としての痛みを感じていることも踏まえると、権利の主体たり得ずとも道徳的配慮の対象とするには十分と思われます。
他方で、昆虫など、配慮の対象とするべきかもやや分かれうる、苦痛を感じず、シグナルとしての痛みしか存在しない生物もいる。ここから、魚、両生類、爬虫類など、同意を形成するということが不可能かつ倫理的配慮の対象とは見る立場からは、そうした生物を性的対象とすることは、対象に苦痛を与える可能性があり、義務として避けるべきということが言えるが、虫など意識的苦痛をほとんど欠いている存在は、昆虫食が、積極的には否定も肯定もされにくいのと同様に、強く否定することも肯定することも難しいです。カントのように徳としての部分を追求して、間接的義務としてそのような行為を避けるべきというくらいのことは言えるかもしれないが、容認することもありうるものの、ただそれでもズーフィリアは、LGBTQと違って、上記のように積極的自由として認められる部分が少ないから、それを共通の目標として希求するLGBTQの連帯に含まないのは不合理、不正義とも言えないと感じます。
ネクロフィリアは、まず死者には合意はなく、死体の処分権は生者の自己決定権の延長としてあり、その権利と管理の義務が形式的に遺族が継承する形となるのが、日本の実定法のなかでの規定やその自然権的根拠です。まず、ネクロフィリアの場合、LGBTQと違って、実定法とも重なる話として「同意の真正性と範囲」が問題になると思います。同意の真正性は、生者との間のそれよりもさらに経験的根拠から客観的に示すのが困難で、範囲に関しても、同意は通常一定期間の拘束力で、恒久的なものではないだろうし、死者には当該契約の取り消しの機会も死後にはないことから、その同意自体の脆弱さがペドフィリアの場合と同様に言えます。 また、人格の痕跡である死体を性的道具として扱うことは、カントのように徳に着目する視点からはそれ自体で善い行為とは言えないから、これも補助的な根拠とみなせます。 結局、ネクロフィリアも譲歩をしたところで積極的自由として容認しうる範囲はかなり限定的なものに留まり、主に消極的な自由として、内心の自由にとどまると思います。
PZNも、「同意に基づく相互的な行為実現の可能性」に基づき普遍的な正義として、積極的な自由の、法や慣習からの承認を要求する点で共通し共闘するLGBTQとはその点で重ならない部分が大きいし、Qに組み込まれなかったとしても、それを不合理で不正義なLGBTQの危険な排外性として評価するのは適切ではないと思います。
厳罰主義
確かに、ネットの厳罰主義に典型なように犯罪者全般の悪魔化はあって、実定法は割と医療倫理とかと相互乗り入れが進んでないフィールドだから、かなり犯罪者に過酷な責任を課していて、個人的には倫理学における主流派のように、「刑罰は容認され得ず、ただ他者の権利侵害を回避するため、重大な感染症などにおいてクライアントの隔離、治療による自由の制限とパターナリステイィックな介入が正当化されえる」くらいのスタンスで、ペドフィリア、小児性愛障害への非人道的な処遇は認容され得ないとは思います。
それにLGBTQから、PZNを区分する際に、「名誉感情の侵害」や「性的指向と性的嗜好の自明な区分」を根拠にする、根拠として乏しかったり逆にLGBTQ 排斥の根拠に用いられた発想にコミットしてしまう危ういコミュニケーションもあるとは思います。
BDSM
BDSMとかはまたPZNと別で、むしろBDSMは歴史的にゲイカルチャーのなかにあって、学術的クイア理論の範疇に入れることも割と多いんですよね。私が「性的指向と性的嗜好の区分は連続的で重なるところも多く自明のものでない」と言ってるのはその文脈を意識していて、その場合性的嗜好だけどアイデンティティ的側面があるんですよね。
BDSMは、PZNと違って、相互の確かな同意と権利尊重に基づいた実現可能性があり、慣習的偏見や非難もあるから、権利運動としてのLGBTQとのコミットがなされることもあるけど、BDSMの場合、多くのプレイは法的には合法で法と自由の衝突が頻繁でなくて、LGBTQはもっぱら公的な領域での、公共圏での積極的自由の実現のために法やモラル・規範の変革を追求するのに対して、BDSMは私的な領域での実現がすでに法であまり制約されていないのと、また法と抵触するような肉体の損害を伴うプレイまで普遍的な権利、正義として正当化し得るかが微妙で、フェミニズムの方面からBDSM的コミュニケーション自体がはらむ支配性の有害さを深刻に捉える向きもあるから、現実の権利運動としてのLGBTQではBDSMと微妙な距離が置かれることが多くて、これのほうがペドフィリアよりも、LGBTQ運動内部の規範のダブスタが見えて若干の危うさを感じるかもな。



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