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正義とは何か
倫理的な普遍的な規範として正当化される正義と、日常的な「正義」は乖離があります。
倫理的に普遍的な規範としての「正義」は、これは誰にとっても妥当するべきとされる規範です。例えば功利主義なら”すべての主体の苦痛・快楽は等しく考慮されるべき”で、カント主義なら”普遍化可能な原理に従って行為せよ”です。このように普遍性、合理性、一貫性を基準に正当化されます。
日常的な「正義」は、むしろ社会的慣習、感情、共同体的な期待に基づくものです。文化的文脈や歴史的背景によって大きく変わり、共同体的、物語的、感情的に正当化されます。
“正義の側にたったとき”?
「人は正義の側に立ったときに一番残酷になる」って言明は、日常的な正義についてまず語っております、「不徳について責任を問う規範的な実践は私人間では特にエスカレートしやすく、手段の正当性が看過されやすい」みたいなことを言いたい気がします。
協調性のない子に対するいじめとか、犯罪者への厳罰主義の背景となる正当化バイアスに対する批判というか応報主義もそれに基づく私刑も、古典的な規範倫理でも容認したり正当化したりするのは難しいものの、そういう言明は、規範的実践について道徳心理学や社会心理学が言ってきたようなことを、ゆるい直感から言ってる気がします。
道徳心理学・社会心理学が指摘することに正当化バイアスがあり、これは自分たちの側を「正義」とみなすことで、攻撃や制裁を正当化するものです。”内集団/外集団バイアス”は、協調性のない子、逸脱者、犯罪者などを外集団とみなし、制裁を強化するもの。公正世界仮説は”悪いことをした人は苦しむべき”という直感が強化するもの。道徳的ライセンシングは”正義のためにやっている”という意識が、普段なら抑制される残酷さを解放する、というもの。
正義の反対はまた別の正義
「正義の反対はまた別の正義」も、メタ倫理的な相対主義が言いたいわけでなくて「道徳的主体の、ほかの主体や規範との対立の際、それぞれあるレベルで配慮と評価に値する」っていう、特にクライアントの伝記的生と向き合う認知療法などの医療倫理で実践的な発想をゆるく語っている気がします。
ルノワール監督の『ゲームの規則』の、「この世界には恐ろしいことがひとつある。」 「それは、全ての人間の言い分が正しいということだ。」っていうのは、そんな感じのことでしょう。



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