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自由意志とはなにか。両立論について解説。また、アボリショニズムについても。

倫理,哲学
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自由意志と決定論とは

人間の行為が真に自由であるかどうかという問題は、古来より哲学の中心的主題です。自由意志とは、一般に、人間が自らの判断や意思によって行為を選択できる能力を意味します。同一の状況のもとで、異なる行為をなしえたという可能性をわれわれが持つと感じるその感覚が、自由意志の直観的基盤です。しかしこの直観は、自然科学的な世界観、決定論と衝突します。

 決定論とは、世界に起こるあらゆる出来事は、過去の状態と自然法則によって必然的に定まっているという立場です。ラプラスの有名な思考実験における「ラプラスの悪魔」が象徴するように、もし宇宙のあらゆる初期条件と自然法則を完全に知りうる存在があるならば、その存在は未来も過去も完全に予測できます。こうした因果的決定論を受け入れるならば、われわれが「自由に選んだ」と感じる行為も、実は過去の出来事と法則の結果として必然的に導かれたものでしかない、ということになります。そこでは自由意志は幻想であり、道徳的責任の根拠もまた揺らぐのです。

両立論と非両立論のはざまで

 自由意志と決定論の関係をめぐっては、三つの基本的立場が形成されます。

 第一は、非両立論です。非両立論者は、決定論が真であるならば自由意志は存在しないと考えます。この立場には、さらに二つの方向があります。一つは硬い決定論で、世界は完全に決定的であるために自由は存在しないとします。もう一つは自由意志論で、これは逆に自由意志を擁護するために決定論を否定します。人間の意志は因果連鎖の外にあり、自己が行為の始原的原因(エージェント因果)となるという考え方です。カントは『実践理性批判』において、現象界(因果の世界)とは別に、理性的存在としての人間が物自体の領域で自由であるという二重構造を提示し、この立場の代表例をなしました。

 第二は両立論です。両立論者は、決定論が真であっても自由意志は存在しうると主張します。ここで言う自由とは、外的な強制がなく、自分の欲求や信念に従って行為することという意味に再定義されます。たとえその欲求や信念自体が因果的に決定されていたとしても、それを自己のものとして承認し、自己の動機から行為するかぎり、行為は自由です。デイヴィッド=ヒュームはこの意味での自由を「行為の自由」と呼び、決定論と自由意志を調和させました。現代の両立論者であるハリー=フランクファルトは、さらに「第二次的欲求」という概念を導入し、人間が自らの欲求に対して評価的態度を取れるという構造を通して、自己同一的な意志こそが真の自由だと論じました。

 第三に、両者のいずれにも完全には収まらない中間的な見解として、「軟らかい決定論」や「準両立論」なども提案されています。これらは、決定論が道徳的責任の否定には直結しないとするもので、自由意志を責任能力や合理的自己統制の能力として再定義する試みです。現代の脳科学や心理学における自由意志論争(たとえばリベット実験以降の研究)は、こうした両立論的枠組みの中で、「自由の経験」「自己決定の感覚」をどのように理解すべきかを再検討しています。

デネットの両立論

 デネットの自由意志論は、伝統的な哲学が抱えてきた決定論と自由意志の対立を大幅に組み替えます。デネットの基本的な考えは、自由意志とは超自然的な力ではなく、進化の過程で人間が獲得した自然な能力だというものです。一言でいえば、自由意志は形而上学的な魔法ではなく、予測し、自己調整し、理由づけによって行動を選択できるという、人間の高度な認知能力のことだとされます。

 デネットは、自由意志には因果から独立することは不要だと強調します。むしろ、行為がその人の内部の理由や欲求に基づいて生じているなら、それは十分自由だという考えるのです。

 この意味では、決定論的な世界の方がむしろ自由意志に向いています。なぜなら、安定した因果構造があればこそ、我々は未来を予測し、行動を計画し、意図的に変化を起こすことができるからです。非決定論的なランダム性は自由を高めるどころか、むしろ主体のコントロールを弱めます。

 自由意志とは、未来をシミュレーションし、選択肢を比較し、環境に応じて自分の行動を調整する一連の能力のことです。その意味で、自由とはできたかもしれない別の行動を考え、それに基づいて現在の行為を改善できる力です。デネットはこれを実務的自由と呼び、自由を社会的実践や責任制度の中に位置づけます。責任を問われる制度があるからこそ、我々は理由を考え、長期的計画を立て、自分の行為に対して反省します。つまり社会制度は、人間の自由意志を作動させるための装置です。

 彼の立場には、クワジ実在論に似た側面もあります。自由意志や意図、自己などは物理レベルの実体ではなく、行為や認知を理解するために必要な設計レベルでの構造であり、道具的に抽出されます。本物の存在ではないが、有効で不可欠な概念だという意味で準実在的です。

 デネットの両立論は、自由意志を自然主義的に再構成し、制度的認知的なレベルで実在性を与えようとする立場です。自由意志を形而上学の領域から引き剝がしつつ、なお我々は本当に自由だと肯定する点に特徴があります。

刑罰をどうするか

 デネット、ペリブーム、ウォーラーはいずれも「自由意志は伝統的に考えられてきたような超自然的能力ではない」という点では一致しているものほ、その先で何を守り、何を手放すかについて大きく分岐します。デネットは、自由意志という語を因果から超越した力ではなく、人間が学習し、理由に基づいて行為を調整し、将来を予測し、社会的な期待に応える能力として再定義します。つまり自由意志を形而上学的な概念ではなく、実際の心的機能と社会制度の中で果たす役割に基づいて理解し直すのです。

 この再構築によって、彼は私たちが責任を問うことそのものを維持し、社会の規範的実践を継続するための基盤を確保したいと考えます。刑罰や称賛・非難は、人々が互いの行動を予測し調整し合うために不可欠な制度的仕組みであり、自由意志の本質はそこにあるとします。

 ペリブームは、古典的自由意志を否定する点ではデネット以上に明確であり、行為者が究極的に自分に帰責できるような責任概念は成立しないと主張します。しかし、自由意志が否定されるからといって全ての責任制度を破棄すべきだとは考えません。彼は、刑事制度を desert(応報的な報い)ではなく、危険性の管理や社会防衛、教育的介入といった実践的根拠に基づいて再設計するべきだとします。こうした改革は、社会制度の現実的な制約と心理的な現実にも配慮した慎重な提案であり、急進的な社会変革を避けつつ応報的責任の否定を段階的に制度へ反映させようとする態度が特徴となります。ペリブームはデネットほど責任概念を肯定しないものの、ウォーラーほど全面否定するわけでもない、中間的な立場です。また、次第にキャルーソの公衆衛生モデルと接続します。キャルーソについても後述。

 ウォーラーは、応報的責任をあらゆる形で完全に廃絶すべきだとする点で最も急進的です。彼にとって、人が称賛や非難に値するという発想そのものが誤りであり、人間の行為はすべて因果的条件に深く規定されている以上、本人の本質的悪さや本人が特別に賞賛に値する善さを前提にした責任概念には一切の正当性がないものです。したがって、刑罰も非難も称賛も、道徳的 desert に基づく限り不当であり、社会制度は道徳的語彙を一掃した、純粋にリスク管理と福祉的介入に基づくモデルへ移行すべきだとします。

 しかし、このラディカルな提案は、社会的動機づけの維持、規範の運用、現場での判断基準の構築などの点で実行可能性に難があり、理論としては一貫しているものの、社会制度としての現実味は低いと評価されがちです。

グレッグ=キャルーソの公衆衛生モデル

 グレッグ=キャルーソは、現代の刑罰アボリショニズムの中心的理論家であり、自由意志懐疑論の代表格としても広く知られている人物です。特徴は、「自由意志は存在しない。だから報復的な刑罰も道徳的非難も正当化できない」という点まではペリブームやウォーラーと同じ方向ですが、そこから先の 制度的代替案を非常に精密に構築するところです。

 キャルーソの中心的提案は「公衆衛生モデル」と呼ばれるものです。これは、道徳的責任に基づく報復や非難ではなく、感染症対策のように、公衆衛生の観点から危険行為に対処するという考え方です。キャルーソは、犯罪行為は個人の自由な選択ではなく、社会的構造的心理的なさまざまな因果要因の産物であり、行為者は”悪い選択をした人”ではなく、”特定の環境によってリスクが生じた人”だと捉えます。したがって、報復する理由はなく、必要なのは社会全体の安全と個人の福祉を同時に高める介入だというわけです。

 このモデルの特徴は、単に罰をなくすというのではなく、非懲罰的な拘束や社会的介入を制度的にデザインしている点です。彼は、社会に危険をもたらす行為者を拘束することは認めますが、それを罰として位置づけません。たとえば、隔離措置は行うものの、それは人を病気から守るために行う隔離と同じであって、あなたは悪いから苦痛を与えるという報復的正当化は一切使わないのでふ。拘束は最小限で、矯正は治療ベースで行います。根底にあるのは、福祉国家的な価値観と、構造的原因への敏感さです。つまり犯罪は個人の性格の問題ではなく、社会構造の失敗の反映であり、責任は社会側にも大きくある、という考えです。

 また、キャルーソは、自由意志が存在しない世界でも規範や期待を維持できるようにするため、「責任」を徹底的に再定義します。個人を罰したり非難したりする責任ではなく、社会全体でリスクを減らすための「公共的責任」を強調します。個人を攻撃するのではなく、環境を変えることで犯罪を減らす方向に重心を移します。こうした社会的因果論の徹底は、神経科学、発達心理学、社会疫学などの研究と整合的であり、キャルーソはこれを理論の強みとして活用します。

 キャルーソの立場がアボリショニズムの中でも特に優位とされるのは、このように 理論・倫理学・社会科学・法制度の四つを同時に扱う総合性 にあります。ウォーラーのように「道徳責任の廃絶」を主張するだけではなく、その後に何が残るのか、社会はどう安定するのか、犯罪者にどう対応するのかを詳細に描き、実務的な議論に耐える形に仕上げています。ペリブームのように理論に強いだけではなく、制度設計の具体性を持ちます。

コメント

  1. より:

    投稿ご苦労様です。ウォーラーさんの『against moral responsibility』の邦訳が出版され話題になるなど、大衆的にも比較的関心を集めやすく、現実の社会制度や他分野と繋げる形で多様な立場や主張を為せる、ポテンシャルの高い場であるとも感じます。さて、当記事では議論の地ならしの役割を持つと認識していますが、葉崎さんご自身の私見も伺いたいです。

    • 葉崎詩織 葉崎詩織 より:

      コメントありがとう御座います🙇
      自分も刑事罰についてのアボリショニズム(廃絶主義)を支持していますが、ブルース=ウォーラーのそれは責任的実践と強く対立的に構える構成上、制度的実現における議論に弱いので、ペリブームやキャルーソの公衆衛生モデルによるアボリショニズムを支持しています。
      ペリブームについては戸田山『哲学入門』などで解説が見えます。

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