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トロッコ問題とは
トロッコ問題(trolley problem)とは、倫理学の思考実験で、人が「ある行為によって何人かを救うが、別の誰かを犠牲にする」というジレンマに直面する状況を扱います。
基本形(フィリッパ・フットが1967年に提起)は、1.暴走するトロッコが線路を走っており、このままだと 5人が轢かれて死ぬ。2.あなたの前には転轍機(ポイント切替機)があり、線路を切り替えると、別の線路に逸れる。3.しかし、その線路には 1人がいる。
そこで、あなたはレバーを引いて、5人を救うために1人を犠牲にするか?という問題です。
伝統的には、これは功利主義と義務論の相違を伝えるものとして用いられてきました。
トロッコ問題の問題?
トロッコ問題とかも、レバー引くのは素朴な行為功利主義で功利主義の一面的な説明にしかならないし、ミルのように功利の質と徳を重視する立場や、現代ではヒースなどのような行為規則主義者がレバー引くとも思えないし、導入として功利主義/義務論の分類に使うのは教育的にかなり不適切です。
ベンサムも、レバーを引かせることの苦痛・社会的反感、長期的影響の評価、法と慣習への信頼があるから、レバーを引くとも限りません。
またあまりに設定も現実から乖離していて、それよりは女性専用車両などのほうが、古典的義務論/功利主義の相違が伝わるような気がします。
古典的な功利主義的観点では、痴漢被害のリスクを減らし、女性の安心、利便性が増します。車両の分離によって一部の男性に不便はあるが、抑圧はごく軽度で、総体的な幸福(被害減少・安心感)は大きく増します。よって制度は「善」とされます。
古典的な義務論的観点では、公共交通における「平等なアクセス」「差別の禁止」という原則に反し、性別による分離は、たとえ結果的に有用であっても、人を平等に扱うべき義務に背く可能性があって、正当化しにくいです。
選好功利主義
功利主義は歴史的に多様化しており、その中でも強い影響力を持つ選好功利主義の観点に立つと、この単純な最適化は成り立たなくなります。むしろ、選好功利主義を精密に適用した場合、レバーを押さない結論の方が一貫している可能性が高いです。
選好功利主義が重視するのは、人々の快楽や苦痛ではなく、選好がどの程度実現されるかです。このとき、線路上の5人と1人の選好は何かという想像的プロファイリングが必要になります。単純に”誰も死にたくない”という選好だけが存在するわけではなく、多くの人は”他者が自分のために犠牲になることを望まない””自分の死が原因で他人が殺されることを望まない”といった、二次的で道徳的な選好を持ちます。
こうした選好をすべて積算すると、人数計算とは異なる結果が導かれえます。つまり、他人の行為的介入によって死が生じる事態を忌避する選好が双方に存在し、それが強度の点で優越する可能性があるためです。
さらに重要なのは、選好功利主義は行為者であるあなた自身の選好も評価対象に含めることです。多くの人は”自分の直接的な行為によって人を殺したくない””介入による加害を避けたい”という非常に強い選好をもっています。これは単なる感情ではなく、選好功利主義では正当な効用項として扱われます。
したがって選好が強ければ、レバーを押すことによって生じる選好不充足(罪責感、道徳的一貫性の崩壊、自己イメージの悪化)は、人数の差を簡単に上回りえます。つまり、選好功利主義は個人の道徳的選好を無視せず、それを結果に反映させるため、介入を避けるという選好が最終的に支配的になりえます。
選好功利主義の理論的難点も、むしろ非介入に有利に働きます。すなわち選好の正規化・同質化、歪んだ選好の排除、情報に基づく理性的選好の条件といった調整を行うと、多くの人は”他者が殺されて自分だけ助かる”あるいは”他者を犠牲にして状況を最適化すべきだ”といった非道徳的・自己中心的選好を強く持っていないと推定されます。その結果、線路上の人々は”自分が救われるために誰かが犠牲になるべきだ”とは必ずしも選好しません。むしろ”誰も殺すべきでない””自分自身の死を原因として他者が殺されることを望まない”という道徳的選好の方が、理性的選好として優越的に扱われる可能性が高いです。
こうした状況下では、「5 対 1」の単純計算は選好の総体を適切に反映しないものです。選好功利主義の結論は、人数ではなくどの選好をどれだけ満たせるかという総合的な評価によって決まるため、非介入という行動が全体の選好充足量を最大化してしまうことは十分に起こりえます。
功利主義と義務論は排他的か?
そもそも、徳倫理学、義務論、功利主義は、伝統的に排他的な原理でありません。
J.S.ミルは「多数者の専制」への警戒を表明し、自由や権利を効用のための義務的制約として擁護したり、幸福における質、徳の重視が知られます。ベンサムも「最大多数の幸福」のために法と制度の設計という義務的、手続き的側面を強調しています。つまり功利主義も、実際には「短絡的な人数比較」ではなく、制度的、義務的枠組みを通じて幸福を守る理論でした。
カントも「万人が普遍的に従えば秩序が維持できるか」といった帰結的発想を含み、有名な動物への間接義務など、徳倫理的な発想にもコミットします。
功利主義も一枚岩ではなく、行為功利主義は、個々の行為がもたらす効用を直接計算し、その都度「正しい行為」を決めますが、規則功利主義は、ある行為規則を一般的に採用したときに効用が最大化されるなら、その規則に従うのが正しい、とします。この規則功利主義は功利主義でありつつ義務論的な規範倫理です。
現代ではその例にジョセフ=ヒースが挙げられます。ヒースは個々の行為の効用計算ではなく、制度設計の次元で効用を最大化することを重視します。市場や規範といった制度は、社会的ジレンマを解決し、全体の効用を引き上げるために必要なルールとします。
規範倫理の統合
さらに、パーフィットとかロールズとか、功利主義と義務論を統合的相補的に捉えるスタンスも多いし、功利主義って正当化の次元では義務的発想を要するし、古典的にも義務的側面で多数者の専制を牽制するものだから、いきなりトロッコ問題で功利主義と義務論を極端に対立的なものとして教えるのは不適切です。
パーフィットは功利主義とカント主義(義務論)、契約論(ロールズ)を突き合わせ、「道徳的真理は深層で同じ規範理論に収斂する」と議論しました。
ロールズも「正義の二原理」によって義務論をベースに、功利主義を補完的に用い、幸福最大化を部分的に評価します。
現代の応用倫理学や政治哲学でも「権利の保障」「制度の正当性」と「帰結の良さ」を組み合わせる立場が主流です。
ベンサム対ミル
またトロッコ問題や橋の上の太った男問題(トロッコ問題と同じような思考実験でシチュエーションが違う)に絡めてベンサムをポルガ博士を破壊兵器に用いかねないサイコパス的に腐したり、ミル上げてベンサム下げる評価結構見るけど、適切なのか怪しいです。
動物倫理としての先駆性、制度とのコミットメント、理論的一貫性はベンサムのほうが優れます。他方でミルは、発想の着想自体は優れるけど、細かい抽象化や権利論、徳倫理(幸福における)とのコミットメントの仕方とか、結構雑です。
象徴的に有名なミルの危害原理とか、幸福の徳の強調とか、理論的直感自体は興味深いけど、あんまり理論構成、諸概念の操作的定義とそれらの指標としての観察可能性、有効性への見通しが雑すぎて、規範倫理の一般的、一貫的な応用的説明力ではかなりお粗末です。



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