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フーコーの真理論
フーコーにとって「真理」とは、客観的に普遍的なものではなく、権力関係の中で制度的に産出されるものです。真理は、科学的言説、専門家の資格制度、社会制度、国家装置などによって承認される枠組みの中で成立します。医学や精神医学のような「科学的知」は、単なる説明や発見ではなく、社会的秩序を支える規範を作り、人々を「正常/異常」「健康/病気」と分ける働きを持つと考えました。
フーコーは『臨床医学の誕生』『監獄の誕生』『性の歴史』などで、医学や精神医学を中心とする「生政治」の装置を分析しました。
患者は個人としてではなく「病態の症例」として対象化され、これが治療可能性を広げる一方で、主体性の剥奪も招くとします。
また精神医学や公衆衛生は、「正常」と「異常」を区別し、逸脱者を矯正・隔離する機能を持ち、これにより「真理=医療的診断」が社会的規範を固定するとします。
医療倫理批判とすると、”1.医療における「真理」(診断・基準)は社会的に構築されたものであり、中立ではない。””2. 医師や制度は「科学的真理」を根拠に規範を強制するため、倫理的にはその権力性を可視化する必要がある。””3. 医療倫理の課題は「正しい治療の選択」だけでなく、「誰が、どのようにして、何を真理とし、どんな人間像を作っているのか」を批判的に問うことにある。”ということがいえます。
フーコーは似非科学?
フーコーの場合、そのような心的現象や主観的苦しみの存在自体は否定してなくて、それが「正常/異常」という二項対立でどう扱われ、分類され、政治的意味を帯びるかを批判し、国家、医学、司法、教育などの逸脱者をラベリングする制度的権力の中立性への疑義が根幹。
疑似科学はそのような心的現象や主観的苦しみの存在自体を否定するか軽視していて、自然主義的スピリチュアル、ニューエイジ的自己啓発(マインドですべては変革できる)、反近代主義、反サロや医療への陰謀論があって、陰謀論的なところはフーコーと少し近いけど、ちょっと系統は異なるとは思う。
フーコーの真理論とその射程
フーコーの医療の中立性への批判自体は、西洋での同性愛、トランスジェンダーなど性的マイノリティへの歴史的処遇を踏まえると至極健全なものではあるけど、真理を制度的構築物とみるフーコーはその構築的プロセスに権力の介入をインフレ的に解釈し、真理論に関してかなり相対主義的(デネット、ギバードなど洗練された制度論的真理論と比して。真理を選別可能な制度的整合性の枠組みとして扱う洗練された制度論)で、真理の説明性、一貫性、理論的整合性、予測可能性など形式科学に特異なその強度の指標や、局所的ホーリズムによるモデルの洗練可能性や制度同士の衝突の際の調整プロセスをうまくとらえて、経験的な真理についてのそのような実践をうまく説明できているとも言い難く、制度的な真理の権力による成立プロセスを分析することを重視して捨象された真理の特性が多い。
「形式科学(数学・論理・理論物理)の真理構造の強度」 、説明性、整合性、予測性などを含むようなより広範な真理観の制度的成立を理論的に捉えきれず、「制度内の実践的整合性」「制度間の衝突の際の調整」「長期的な理論の洗練プロセス」といったダイナミクスを、記述し・評価する理論装置を欠いていた説明力の弱い相対主義的傾向がある。
折衷的スタンスの可能性
フーコーの懸念を勘案しつつ、パトナムなどの、修正的自然種概念で医学的ラベリングを準実在論的に担保しつつ、それをパターナリスティックな介入の指標とすることが、患者当人の自由と幸福、他者危害の防止をいずれにも気を配りつつ、展開すべきだと思う。
パトナムのそれはある医学的分類(うつ病、自閉症スペクトラム、統合失調症など)がクリプキ的な完全な自然種ではなく、歴史性や解釈を含むとしても、それは全くの虚構ではなく、一定の実在的構造に根差しており、実践的区別として有効である準実在論的な修正主義的自然主義の立場。ここで自然種とは「社会的文脈を前提としつつも、ある程度の実在的区別(病因、症候、介入アプローチ)に根差す」とする折衷的なもの。極端な構築主義でもナイーブな本質主義でもない。
医学的ラベリングも「完全に任意なラベル」ではなく、実践的機能と経験的帰結によって、医療的実践のなかで、道具主義的に検証、洗練されうる指標。
パトナムの意味論、真理論的変化
パトナムは、活動時期によってスタンスが違って、有名な双子地球実験は、初期の意味論における強い本質主義、外在主義的スタンスを体現するものなんですよね。それで初期から意味論について、規約と自然種的本質の二元論的理解をしていたのはそうなんですが、次第に規約の方に重きを置くようになっていきます。
中期では、確かに初期には「水=H₂O」という形で答えたものの、実際には我々の科学的理論が H₂O を水と見なしているにすぎない。もし科学理論が違っていたら、同じ外見の液体を別の仕方で分類していた可能性もある。だから、双子地球で人々が「water」と呼んでいる液体を XYZ と科学的に特徴づけたとしても、それは彼らの理論枠組みに依存するのであって、「絶対的に誤り」というよりは「枠組みの違い」と、見ると思います。
後期には、地球人が「水」と呼ぶものは H₂O、双子地球人が「water」と呼ぶものは XYZ。だが、その違いは形而上学的な「本質」の問題ではなく、言語共同体がどのように実践的に参照を固定してきたかの問題にすぎない。双子地球人の言語実践は XYZ を中心に組織されているので、それを「water」と呼ぶのは正当である。地球人にとっては H₂O が「水」。どちらもその共同体の実践において正しい、と見ると思います。
参考文献
石原 孝二 (著)『精神障害を哲学する: 分類から対話へ』



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