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ゲディア問題とは
ゲティア問題とは、1963年、アメリカの哲学者 エドマンド・ゲティア が論文 Is Justified True Belief Knowledge? で提示した問題です。
それまで標準的だった「知識=正当化された真なる信念(JTB説)」に対して、「その三条件を満たしていても、それは必ずしも知識とは言えない」という反例を示しました。
JTB説とは、知識 = 真なる信念 + 正当化つまり、ある命題 を知っていると言えるのは、次の3条件を満たすときだとする立場です。正当化条件
は、その信念が合理的に根拠づけられていることで、単なる偶然の一致では「知識」とは呼べません。信念条件は主体が「A」を信じていることで、信じてもいない命題を「知っている」とは言えません。真理条件は「A」が事実として真であることで、偽であれば知識とはなりません。
ゲディア問題の是非
ゲディアはJTB説を伝統的な真理論で支配的な発想と見ていましたが、実際にはどうでしょうか。プラトンは知識の本質を魂のイデア界への形而上学的接近に見たといえるけど、経験論の場合も確かにロックみたいにJTB説にかなり親和的な発想もあるけど、バークリーとかヒューム(正当化への懐疑)とか、あんまり重ならないのも多いし、JTB説が一貫して哲学史の暗黙裡の支配的ドグマではないけど、ただそれと近い立場をとる哲学者はたくさんこれまでにいたし、分析哲学でも結構そうよね、くらいのことは言えそうですが、とはいえ正当化と真理の条件自体が認識論的世界観に依存するので、形式的にそのような共通性が見いだせたからと言って、なんともいえないところです。
ゲティア問題でいう知識のJTB説のいうドグマって、古代からの支配的なドグマというより、経験論を経て、分析哲学で整理されていったもので、カルテジアン劇場とかもそうだけど、自然主義、分析哲学の人って必ずしも哲学史に明るくないから、原典の理解が不正確なことはままあります。
JTB説自体は、確かに古代哲学や経験論にそれと近いものがあったけど、ラッセルとかエイヤーが暗黙裡に前提とし分析哲学が共有していた発想をモデルにしたのがJTB説って感じです。
以下、プラトンについて見ていきます。
プラトンのメタ倫理、科学哲学的整理。JTB説との関連
プラトンのスタンスは古典的認知主義、内在主義、強い実在論、強固な非自然主義で、内在主義と認知主義のこんにち的緊張を神秘主義的徳倫理でフォローしてて、コースガードの同一化モデルなんかと近い感じです。
プラトンのイデア論って、真理を強い形而上学的実在として措定してるから、カントのアプリオリと同じで経験に依存しないものです。
プラトンはJTBに関して確かに近いことは言ってて、「真であること」+「信じていること」+「理由・説明(ロゴス)」を持つこと、を知識の特徴とは見てたけどそれだけで定義はできないとして完全な定義をしていないけど、そこから知識とは何かについて考えようとすると、ゲティア問題に絡めて言うと、ザグゼブスキーの徳認識論とは相性良さそうです。
プラトンは『テアイテトス』などでJTB説的な知識(エピステーメー)の定義づけは不十分とみていたけど、エピステーメーにはアナムネーシス(想起)が必要とされ、『メノン』などで人間の魂は生まれる前にイデア界で真理を見ていたとして、アナムネーシスは魂がそれを思い出すことで、これが新プラトン主義に継承されて、その後の神智学とか近代オカルトのルーツになっています。
また、プラトンの真理論的モデルは科学的実在論とかなり重なります。
科学的実在論とは
科学が語る対象(電子やブラックホール、DNAなど)は実際に存在し、科学理論は世界の構造を真に描いているとする立場です。科学が提示する理論やモデルは単なる「観測を整理する道具」ではなく、世界の実際の姿を反映している、と考えるスタンスです。
一般に科学的実在論は次の3点に要約されます。認識論的主張(確立された科学理論は、少なくとも部分的に真理に近づいている)、存在論的主張(科学理論が語る存在は実在する)、意味論的主張(科学理論の文は、真偽を持つ”現実についての記述”として理解されるべき)です。意味論と認識論における主張が強いです。
パトナムの科学的実在論からの離脱もそうだけど、認識論、意味論的な特徴づけが極端なのに加えて、存在論の次元でもそこで前提とされる客観的真理が原理的に不可知論的存在で、ブラックホールなどと異なり仮説的アブダクションとして設定して、事後的な観察で経験的に確かめられることもあり得ません。
科学的実在論/反実在論というと、後者を科学的存在についての存在論的相対主義みたいに捉える人がいるけど、構築主義とかそういう例もあるけどそうでないほうが科学哲学では多数で、科学的実在論は基本的に、”脱宗教化した科学的プラトン主義”って感じです。
ハッキングなどの実践的実在論ならともかく、選択的実在論や構造的実在論も、結局科学的実在論の知識テーゼに係る根本的な不可知論、形而上学的負荷、検証可能性の課題を解消できてないとは感じます。対応説にかかる意味論的な部分を緩和したくらいで、本質的にそうかわらないです。
科学的実在論とプラトンの共通点
プラトンと科学的実在論は、両者ともに強いリアリズム的直観を共有しています。外在的世界の独立性において、プラトン主義は、理念(イデア)は人間の思考や言語とは独立に存在するとし、科学的実在論は、科学が記述する対象(電子や惑星など)は、観測や理論とは独立して実在するとします。
真理の対応説への依拠があり、世界に独立して存在する構造や対象があり、言明はそれに「対応」するとき真となるとします。真理=対象世界にぴったり合うかどうか、というモデルです。
認識の透明性への期待があり、プラトン主義では哲学的認識を通じてイデアに「接近」できるとし、古典的科学的実在論では、科学理論を通じて世界の真の構造に「接近」できとします。
両者の欠点
プラトン主義と科学的実在論には、共通の欠点があります。
まずアクセス不能性の問題です。イデアや「世界そのもの」は、われわれの感覚や言語を超えた次元にありますが、人間がどうやってそれに到達できるのか、「対応関係」を保証する方法がなく、検証不可能です。
また言語、認識の媒介を無視する問題があります。プラトン主義は、イデアは純粋に存在しており、言語や概念はそれを写すだけだとみなします。科学的実在論は、理論は世界の記述であり、言語やモデルの構成性は副次的だとみなします。しかし実際には、人間の言語・概念枠組みが真理判断に介在しており「裸の事実」への直結は幻想に近いものです。
真理の一義性の幻想についてもあります。プラトン主義は、イデアは唯一の真の実在であり、真理は一義的に定まるとし、古典的科学的実在論は、科学理論も、世界の「正しい一つの構造」に対応しています。しかし実際の科学は「複数のモデル的記述」が並存しており、真理の多元性を無視しています。



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