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語りえぬもの
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における最終命題「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」は、誤解されやすい表現です。この命題は前期ウィトゲンシュタインが展開した言語と世界の同型性理論の文脈に位置づけられます。
ウィトゲンシュタインによれば世界は事実の総体であり、命題はこれらの事実構造を論理的に写像することで意味を持ちます。言語の限界は、論理的に表現可能な世界の限界と重なるため、論理形式で表現できないもの、すなわち倫理、美、形而上学、主体性などの領域は、命題として語ることができません。この意味で先の命題は、単なる記述ではなく、哲学の射程に対する規範的境界の設定です。つまり、哲学は論理形式で表現可能な領域に限られるべきであり、論理的に表現できないものについては哲学として語ろうとすべきではないという規範的指令が含まれています。
言語ゲーム?
この命題を後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」や使用理論的文脈で解釈すると、意味が転倒します。後期の立場においては、発話の意味はその使用文脈に依存し、語りえないものとは、論理形式の欠如ではなく、特定の文脈で意味を持たない発話を指します。この場合、沈黙は規範的命令ではなく、意味の生成が文脈に依存することの記述的な洞察に過ぎません。したがって「語り得ぬもの」に関する規範的命令は自己無効化し、沈黙せよという指令の意味が失われます。
つまり、前期的命題としての規範性は、論理的限界に基づく形式言語的枠組みに固有のものであり、後期的な言語ゲームの文脈に移入しても成立しません。
ディヴィッドソン
デイヴィッドソンの立場はさらに異なります。彼にとって、論理形式は固定的なものではなく、真理条件理論などの理論的枠組みによって与えられるものです。発話は適切な理論的翻訳を通じて論理形式に組み込まれうるため、原理的にほとんどすべての発話は語り得るものとされます。
デイヴィッドソン的視点では、前期ウィトゲンシュタインのように論理形式の外部にあるものを哲学的に沈黙させる必要はなく、「語り得ぬもの」とは単にまだ理論化されていない発話に過ぎません。
総じて言えば、件の命題は前期ウィトゲンシュタインに特有の形式言語に基づく論理的境界設定の規範的宣言であり、その中心には「論理形式で表現できないものは哲学の射程外である」という明確な制約があります。後期ウィトゲンシュタイン的解釈やデイヴィッドソン的理論における連続的な言語理解と比較すると、件の命題の規範性は前期独自のものであり、言語ゲームの使用に内在する実践的限界や翻訳可能性の問題とは質的に異なることが明瞭となります。
この命題は言語ゲームや使用理論の枠組みに内在する問題を示すものではなく、あくまで哲学が取り扱うべき対象と取り扱うべきでない対象を論理形式に基づき規範的に区別する前期的命題であると理解されます。



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