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認識論の伝統
伝統的に認識論では、デカルト的物心二元論(誇張されて捉えられえるけど)、観念論的な現象と客観的実体(とその媒介的本質的超越論的存在)の相互作用によるモデルが多かったのでした。
デカルト(物心二元論)は、精神(思惟するもの res cogitans)と物体(延長するもの res extensa)を峻別し、その統合的作用を考えようとしました。デカルトはまた、神の保証によって「観念=外界を正しく表す」という信頼性を確保しようとしています。
その後、認識論ではロックは、感覚データ(観念)が心に与えられ、それをもとに外界を認識する(表象説)と見ました。バークリーは、外界実体を否定し、存在=知覚されることとします。ヒュームは、知覚の束としての心、外界の必然性を懐疑的に扱いました。カントは、現象(感性と悟性の構成によって与えられる世界)と物自体(不可知な基底)を区別し、ここで「媒介的・超越論的な存在」が強調されます。
ジェイムズの純粋経験
ジェイムズのプラグマティズムの純粋経験は、まず経験それ自体を認識論的基盤(純粋経験)にして、物心二元論や現象/実体の二元論、統合論をとらずに、直接的な経験それ自体から認識論を展開しようとします。
経験そのものが第一次的な与件であり、これを心や物に分割するのは二次的な操作にすぎない、つまり、「純粋経験」とは、まだ「心の内容」でも「外界の事物」でもない、未分化の現実そのものです。そこから、文脈・関心・実用的関わりの中で「これは心の側(知覚や思考)」「これは物の側(対象、出来事)」と切り分けられる、という設定です。
ジェイムズのおいて認識とは「経験の中のある部分(知覚や思考)が、他の部分(対象とされるもの)とつながる関係の仕方」であり、ここに超越的媒介は不要です。懐疑論的に「外界は本当にあるのか?」と問う必要もなく、「経験の連関自体」が世界を構成していると考えます。
セラーズの批判
結局それもセラーズの与えられの神話(1.「知覚的経験」そのものは「知識の正当化の基盤」にはならない。2.知識は常に概念的・言語的・社会的な文脈に埋め込まれている。3.したがって「経験がただちに基礎を提供する」という発想は神話にすぎない。)で、批判されています。
セラーズは、経験そのものは知識の正当化基盤にならず、生の感覚データや「与えられたもの」は、それだけで「知識」としての役割を果たせないとします。たとえば「赤い斑点が見える」という経験があったとして、それを「赤」と言えるのはすでに概念体系に依存しているとみました。
知識は概念的・言語的文脈に依存しており、知覚が「何かを〜と見る」として成立するには、言語的・社会的訓練を通じて得られた概念枠組みが必要で、「経験」は最初から概念的・解釈的に構成されているとしました
「ただちに基礎を提供する経験」という発想は神話で、純粋経験という「非概念的な基礎」から認識が積み上がる、というモデルは成立しないとセラーズは見ました。知識はつねに「概念の網の中」で互いに支え合う(循環的・ホーリスティックな構造をもつ)というのです。
現代では、セラーズ的な広義の行動主義的プラグマティズム(言語・行動・推論のネットワークの中で知識を位置づけるもの。ブランダム、語用論、デネット・ミリカン的自然主義)が主流な感じ他方で、純粋経験は分析枠組みや理論的端緒として、現代現象学とかエスノメソドロジーである程度有用な感じベルクソンの直観主義は、純粋経験を強く踏まえるものでそれを認識論的基盤に置くもの。
フッサールとの比較
フッサールのほうが、現象と客観世界とその統合的原理を前提とする、伝統的なカント、ヘーゲル的観念論的モデルに近いけど、方法論としてはベルクソンに近く、現象的経験への着目に重きを置く感じです。
フッサールの現象学は、意識に与えられるものの自明性に依拠して哲学の基礎を築こうとした体系と理解されがちですが、実際にはそう単純ではありません。
たしかに初期のフッサールには、意識の与えられの確実性に依拠するかのような姿勢があるものの、後期の彼の議論は一貫して、経験や表象がどのような条件のもとで成立するのかという、成立条件論的な方向へ向かっています。知覚も意味理解も、単なる受動的な与件によって保障されるわけではなく、それらは志向性・時間意識・地平構造といった複雑な機能的・関係的契機の組織化によってはじめて成立します。そういう点で、フッサールの立場は、素朴な与件主義や基礎づけ主義というより、経験を可能にしている構造の働きに注目するカントの超越論的哲学に近いです。



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