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ロールズの正義論
ロールズは「自由で平等な市民が共に生きる社会で、社会制度はどうあるべきか?」を問い、これに対する答えとして「正義としての公正 (justice as fairness)」という理論を提示しました。
有名な思考実験として、原初状態と無知のヴェールがあります。そこでは、人々は自分の能力、階層、性別、民族、運の良し悪しなどを知らされない「無知のヴェール」の下に置かれます。その状況で自分たちが属する社会の基本的ルールを決めるとすれば、どんな原理を選ぶのか。
ロールズは、この条件下で合理的な人々が選ぶのは2原理だと主張しました。一つは平等な自由の原理で、すべての人が、基本的自由(言論・信仰・結社・法の下の平等など)を平等に持つことです。
2つ目は社会・経済的不平等の調整原理です。機会均等の公正として、職や地位へのアクセスはすべての人に公平であること。また格差原理として、不平等があってもよいが、それが「社会で最も不遇な人々の利益になる場合」に限られる、とします。
ロールズの正義の根拠
なぜ、ロールズは善に依存せず正義を構成したのでしょうか。
ロールズは価値相対主義を懸念した、というのでもない感じです。ロールズの見解では近代民主社会では、カント的な道徳的理性主体が、徳に依存してそれぞれ真剣に考えたとしても、宗教的・哲学的・道徳的な包括的教説について合意に至ることはならない(善の多元性)とします。
そこでロールズが想定するのは 「包括的教説」のレベルでの多元性で、無制限な相対主義ではなく、理性的道徳的主体の徳に根ざす善です。その理性的主体の徳や合理性の構造には共通基盤があって、それを構成的な真理として追求するのがロールズの正義構想です。
正義の原理は外部にある実在的真理から演繹されるのではなく、理性的主体がその徳と能力を働かせる構成的手続き(原初状態)を通じて確立されるという感じです。
サンデルによる批判
サンデルは代表的な「コミュニタリアン(共同体主義的批判者)」としてロールズを批判しました。
ロールズは「原初状態」における人間を、属性や所属を知らない抽象的・中立的な自我として想定しました。サンデルはこれを「非拘束的自我」と呼び、批判したのでした。実際の人間は、共同体や文化、伝統、家族、歴史的背景と切り離せません。自分のアイデンティティや価値観は共同体に根ざしており、「ヴェールの彼方」に置いて中立的に選択することは不可能です。
ロールズは「正義」を「善より優先」する原理として、どんな善を持つ人でも合意できるのが正義原理だと考えました。サンデルはこれを批判し、正義は善から切り離せないと主張します。例えば、社会制度を設計する際に「どう生きることが価値あるか(善の観念)」を無視することはできません。善を共有しない正義は、空虚で人々を実際に結びつける力に欠けます。
またロールズのモデルは個人主義的で、「権利を持った孤立的個人」が基礎になっています。サンデルは、実際には共同体や公共善への帰属意識こそが社会を支えており、ロールズ的個人主義はそれを軽視していると批判しました。したがって、正義を考えるには「共通善」の議論が不可欠です。
ロールズは「公正としての正義」によって多元的社会での合意を目指したが、サンデルからすれば、実際には善を抜きにした正義は成立しません。人間は「非拘束的な自我」ではなく「共同体に埋め込まれた存在」であり、その前提に立つ理論が必要です。
サンデルの批判の検討
サンデルのロールズ批判は形而上学的負荷に対するものとしては一理あるけど、共同体主義へのコミットメントは不要で、原初状態を”情報不完備ゲームにおけるパレート改善的な均衡装置”と理解すれば、形而上学的存在論から切り離して、方法論的モデルとして再構築できます。そのように原初状態を規範的に正当化するための存在論的前提ではなく、公正なルールを導出するための方法論的仮構として読むなら、サンデル的な歴史的厚みによる形而上学的負荷の調整は必須条件ではなく、モデルの説明力は担保されます。あくまでも、形式的洗練で応答可能な問題です。
ロールズってルソーと違って、人間本性の記述に立脚するものでなくて、そこで想定されるのはゲーム理論的な方法論的装置で「無知のヴェール」により、社会的属性を剥ぎ取った主体が合理的選択を行うもので、人間存在の本質的記述が基盤ではないから、サンデルの批判は致命傷にはなりません。
他方、やはりロールズの一番の問題は、善から真理を構成できないとしつつ、実際にはカントやリベラリズム的善から正義が構成されている点です。表面的には「善から独立した正義」を提案しているけど、根本的には特定の善(理性的・道徳的主体の徳)に依存していて、それを正義はそうした包括的善の教説に依存せず、政治的に限定された構想であると政治から切り離して修正し、公共の理性や重なり合う合意に訴えようとしても、主体についての前提を抜きには成立しません。実際のところロールズは「特定の善に依拠しない」は建前になっていて、特定の善に依拠しつつ、社会全体として善の最大多元性を包摂する正義を構成しようとしている感じです。
ロールズの正義はそのような「特定の善に依拠しつつ、社会全体として善の最大多元性を包摂する正義」としての正当性は考えられますが、とはいえ善に依存しない正義を構成できてはいません。
メタ倫理的ちぐはぐさ
ロールズの場合、善にメタ倫理における実在論的前提を置くからそれに依らずに正義を構成するっていうのがそもそも目標設定の段階から内在的に困難になっています。
そういう前提とるならパーフィットみたいに道徳的真理や善など道徳的事実の客観性を強めて、道徳的実在やそれに根ざす規範倫理、道徳体系などが道徳的真理への志向性を持つとしてその一致する次元において契約や正義を追求するしかないですし、そうでなければギバードみたいに自然主義的に基盤をもつ規範的実践を手続き・表出・合意の枠組みで捉えて実在論的前提自体を放棄して正義を構成するとかしないと、うまくいかないです。
パーフィット路線をとるならメタ倫理的世界観の修正は大きく要請されないけど、善に依拠しない方法論は維持できません。ギバード路線だと、善の実在論的スタンスや世界観の大きな修正が要請されるものの、実践的合意のなかで多元的価値自体は包摂しうるし善に依拠しないという方法論は維持できます。
倫理と政治を分けて正義は政治の領分で手続き的正当性から構成されると言い張っても、結局政治の領域でも民主主義的、共和主義的、公共的徳や善が手続き的正義の正当性と不可分のものです。



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