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信頼できない語り手とは。ブースからナラトロジーへ。

芸術,美学
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ブースの議論

ブースの「信頼できない語り手」 という語は倫理的で修辞的な語であって、語りの焦点化や情報量の制約を技術的に扱うための道具ではありませんでした。だからこそ、ブース自身が語り手の態度や価値観のズレを「信頼できない」と名指すとき、それは実際には叙述行為の構造的性質ではなく、暗黙の作者と仮定される実在しない存在との価値判断の不一致を読者が読み取る、という仕組みに依存しています。語り手の提供する情報の多寡や確実性ではなく、語り手の判断の色付きそのものが問題にされています。

 しかし、この概念は後続の理論家たちが情報論的な方向へ拡張したい場合には致命的に扱いにくいものです。ブースにとっては、知識量の制限などは語りの技術上の事情であって、信頼性そのものとは無関係であるのに、後の読者や研究者は全知的語り(ゼロ焦点化)的な透明で客観的な語りをデフォルトとみなし、そのデフォルトに満たない語りを信頼性が揺らいでいると言い換えてしまいます。そこで内的焦点化の語り手や、同じ世界に属する語り手のほとんどは、構造的に全知的語りほど明晰に世界を提示しないという理由だけで、不当に信頼性の欠如を帯びたものとして扱われます。そしてその扱いの曖昧さは、実際のテクストにおいて、語り手の知らなさが単に焦点化による技術的制約なのか、それとも語り手自身の偏向や歪曲によるものなのかが明確に区別できない、という形で表現的に入り乱れます。ここに、ブース的概念をジュネット的構造分析に接続する際の本質的な困難があります。

ジュネットの整理と限界

 後続のジュネットのナラトロジーはこの困難を解決しようとして、「語り手が知らない」「見えない」「誤解している」という焦点化・情報制限の問題と、「語り手が歪曲し、欺き、価値判断をねじ曲げている」という修辞的・倫理的問題を分けるべきだ、としばしば主張してきました。

 しかし、テクスト内の語りが実際に機能している仕方を見れば見るほど、その二つはきれいに分けられません。語り手の無知は不誠実と見えることがあり、語り手の偏向は世界構築デザインの一環に見えることがあり、読者はそれを常に 暗黙の作者 というより大きな虚構的存在の意図を推論しながら判断するしかないのです。語り手が世界について断片的な描写しか与えない場合、その断片性が焦点化の構造的制限の結果なのか、語り手の認識の偏向の結果なのか、作者の意図的な演出なのかは、読者の解釈の地平を越えて確定できません。曖昧さのなかでは、信頼性という言葉はどうしても、情報論的・倫理的・演出論的な含意が絡み合う、混成的で緩い概念にとどまります。

信頼と制限

 この曖昧さの根底には、語りの透明性を保証するものとしての全知的語りへの無意識の依拠があります。つまり、語り手が世界をすべて把握しているかのような古典的リアリズムの枠組みが、文学理論の側で基準の地位を占めてしまいました。そのため、その基準に合致しない語りは、語り手の能力不足や信頼性の揺らぎとして読み取られがちになります。しかし、これは語りの多様な戦略を全知語りモデルに対して否定的に位置づける読み方であり、実際の文学作品の歴史的展開を狭く見ることにもつながります。

 内的焦点化が語り手の不誠実性を意味するというより、全知的語りがむしろ歴史的に特殊でイデオロギー的でもあるという視点を持てば、世界を断片的に提示する語りは信頼性の欠如ではなく、世界構築の戦略の一部であることがむしろ多いです。

 結果として、ブースの「信頼できない語り手」という語は、理論的には一見明晰なようでいて、実際には読者が作品の語りの振る舞いをどう読むかによって意味を変える、曖昧な操作概念です。ジュネット的構造分析が試みたように情報制限と価値的ズレを分けようとしても、その試みは常にテクストの具体的効果の前で崩れ、語りの限定性そのものが信頼性のゆらぎとして受け取られてしまいます。

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