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ツインアース仮説とスワンマンの外在主義。その論証としての瑕疵

倫理,哲学
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双子地球説の問題

 双子地球仮説は、どこから突っ込んでも論証としての体裁をなしていないようなものです。

 まず何より、この思考実験は極端な形而上学的負荷を要求しており、現実世界の物理法則・文化史・生物進化・言語習慣といった膨大な因果連鎖を地球と完全に同一であると恣意的に固定したうえで、ただひとつ「水だけはXYZである」という不自然な改変を施すという、可能世界意味論において許容される最小限の変更をはるかに逸脱した世界構築を強いています。ほぼフィクション的設定であり、そこで得られる直観は現実の言語使用に対する一般化の根拠としては役立たないものです。しかしパトナムはこの極端に統制された設定をそのまま外在主義の論証と見なしてしまっており、そもそも思考実験の成立自体が疑わしいものです。

 またこのシナリオが外在主義的な意味観(すなわち語の指示は心理内部ではなく対象の本性に依存するという考え)を暗黙裡に前提しており、その前提を使って外在主義の正しさを示そうとしているという点です。これは典型的な論点先取であり、「外在主義が正しければ外在主義は正しい」という循環を、可能世界という劇場装置によって隠しているにすぎないのです。

 しかも、指示理論自体も自然種の微視的本性に語の意味を直接対応させるという素朴な因果説に寄りかかっており、現代の言語哲学において重視される社会的・語用論的要因、専門家共同体による概念裁定、社会的実践としての意味、規範的推論役割などをほとんど無視している。

 こうした弱点の結果として、双子地球は最大限譲歩しても個人内在主義のごく素朴なバージョンを否定する程度の教育的効果しか持たず、言語共同体レベルの内在主義や社会的・規範的な意味観を揺るがす力はまったくありません。むしろ、現代的な意味論の観点から見れば、双子地球は問題設定の段階で既に理論的に時代遅れであり、実務的・社会語用論的な言語理解にとってはほとんど何も批判できていないものです。

 これほどの形而上学的負荷を積み上げ、蓋然性の極めて低い可能世界を指定し、論点先取を重ねた末に得られる結論がこの程度のものだという事実は、むしろ思考実験としての破綻を示していると言ってよいのです。

 双子地球仮説は外在主義のインパクト重視の導入教材としての役割と、前期パトナムが後に自ら反省することになる理論的混乱の象徴としての価値しか持たないものです。

スワンプマンの問題

 スワンプマンの思考実験も、双子地球と同様に、論証として成立していないどころか、設定そのものが議論の結論を密輸入してしまっている点で致命的です。デイヴィッドソンは「稲妻によって偶然生成した人間のコピーは、記憶らしきものを備えていても意味ある信念や指示能力を持たない」と主張するものの、この結論は彼の持つテレオロジカルな意味観、すなわち意味・信念・指示は歴史的因果連鎖に根ざしていなければ成立しないという前提をそのまま仮定してしまっています。つまり意味には因果史が必要だという理論そのものを前提にし、その前提を確かめるために因果史のない存在を勝手に世界に発生させ、そこで理論が正しいかのように見せています。これも論点先取です。

 思考実験としての形而上学的負荷も極端です。スワンプマンは、物理的世界の法則性・進化的過程・発達史・認知体系・社会語用論的慣習などあらゆる要因を無視し、稲妻が偶然完璧な分子配置をつくったという反自然的な前提に依拠しています。これは、双子地球でXYZという都合のよい自然種を可能世界に挿入したのと同型の問題で、もはや論点を明らかにするための最小限の反事実的改変ではなく、理論のために世界を作り直すレベルの恣意的操作になっています。こうした極端な反自然性によって得られる直観に、現実の言語や心の哲学を説明する力があるとは到底言えません。

 さらに重要なのは、スワンプマンはデイヴィッドソンが批判したい内部主義的・表象主義的意味観にはほとんど打撃を与えないという点です。たとえスワンプマンが意味を持たないと仮定しても、それは因果史のない存在は意味を持たないという外在主義的テーゼの範囲内での話に過ぎず、内在主義者は簡単にかわせます。

 スワンプマンは双子地球と同じく、極端に統制されたお話によって外在主義の直観を印象的に提示するための装置で、厳密な哲学的論証ではないものです。

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