コンテンツ
テクストとは
デリダの有名な命題「テクストに外部はない」は、しばしばテクスト論的反意図主義のスローガンとして誤読されてきましたがそうではありません。
デリダの言う「テクスト」は決して「書かれた言語」に限定されません。それはむしろ、あらゆる意味・表象・経験が相互参照的な差延の過程を経てしか成立しないという構造そのものを指しています。したがって、「テクストに外部はない」とは、存在や真理がテクストの外部に、純粋な現前や与件として与えられることを否定する、存在論的な構成依存性の宣言です。
このときデリダが拒んでいるのは、哲学的に言えば「独立性テーゼ」、すなわち記述や媒介の外部に、自己同一的で独立した対象的実在が存在するという想定です。デリダにとって、世界のいかなる契機も、何らかの差延的記述過程を通じてしか立ち現れないものです。存在とは常に、記述(差延的な痕跡の連鎖)のうちで現れる現象であり、その意味で世界は常に記述的構成への依存のうちにあります。
セラーズとの比較
この点で、デリダはセラーズの「与件の神話」批判と深く共鳴します。セラーズは、非概念的な与件としての経験が認識の基礎となりうるという考えを否定し、あらゆる知覚や認識は概念的秩序の内部でのみ意味を持つと述べたのでした。デリダもまた、同様に「差延的秩序」の外部に純粋な現前を措定することを拒みます。
ただしデリダは、セラーズのようにこの秩序を一義的な「概念的フレーム」としてではなく、常にズレや遅延、痕跡を孕んだ開かれた差延の場として理解します。意味生成は固定的体系ではなく、常に自己をずらしながら成立する運動であり、したがって「テクスト」とは世界の差延的構成のプロセスそのものです。
この意味で、「テクストに外部はない」という言明は、単に反意図主義的でも、言語中心主義的でもありません。それはむしろ、存在論的構成主義のラディカルな形態です。世界は差延的記述のネットワークを通じてしか立ち現れず、あらゆる存在はその構成的依存のうちに位置づけられます。しかしその依存は決して一義的ではなく、常に多元的・可変的・再記述的です。デリダにおいては、構成の媒体は「言語」に限定されず、記号、身体、制度、物質的痕跡など、多様な形で働きます。言い換えれば、彼の「テクスト」は言語的記述を超えて、差延的意味生成のあらゆるプロセスを包含するのです。
バトラーとの比較
この点でジュディス=バトラーの立場はデリダと通底しながらも、やや異なる傾向を持ちます。バトラーは、主体・身体・ジェンダーなどの構成を主として言語的パフォーマティヴィティの次元に還元し、言説的な媒介を中心に据えます。彼女における「外部なき構成性」は言語的社会構築主義の枠内で展開されるのに対し、デリダの差延論はより広義の記述的構築主義として、言語以前の記号的・身体的・物質的レベルにも開かれています。
したがって、「テクストに外部はない」という命題は、社会構築主義の典型例として理解できます。存在は差延的記述に依存しており、その依存関係は常に多元的・相互的であり、いかなる単一の記述体系にも還元されません。デリダにおける構築主義は、社会的構成を超えて、存在の水準にまで拡張されたものです。
デリダの「テクストに外部はない」とは、世界が差延的記述過程を媒介としてしか現れないという存在論的洞察です。それは、経験や意味の基礎に独立した与件を置くことを拒否し、同時にその記述的依存が一義的でも閉鎖的でもないことを強調します。この立場は、セラーズの「概念的構成主義」を開かれた差延の場へと転換したものです。



コメント