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ハード・プロブレムとは
意識のハードプロブレムは、チャーマーズの唱えた概念です。
まずイージー=プロブレムとは脳の情報処理や認知機能、注意、行動制御などのメカニズムを科学的に説明する問題です。そしてこれは神経科学や認知科学で段階的に解明可能とされる。
ハード=プロブレムとは、なぜ、どのようにして、情報処理や脳活動が主観的体験(クオリア)を伴うのかを説明できるのか、という問題です。赤を見ると「赤い感じ」がする、痛みを感じると「苦痛の質感」がありますが、この「質的な経験」の存在を自然科学的にどう説明できるのか。
チャーマーズは、計算、機能、行動の説明だけでは「なぜ意識が生じるのか」は依然として説明されないとします。
デネットの応答
ダニエル=デネットは、この「ハードプロブレム」という区別そのものを批判します。
デネットは「クオリア」や「第一人称的な特別な質」を実体的に認めません。「ハードプロブレム」は実際には「イージープロブレム」の寄せ集めを神秘的に見せかけただけだ、と批判します。
そして意識は「多元的草稿モデル」で理解できるとします。脳の中で同時並行的に情報処理が走り、それが統合され、報告可能な形になることが「意識」と呼ばれるのです。特別な内的スクリーンやカルテジアン劇場は存在しないとします。
「痛みを感じること」と「痛みに対する行動・言語・内的処理をすること」との間に神秘的なギャップはありません。人が「主観的体験がある」と信じるのは、脳の自己解釈、自己モデル化の結果にすぎないのです。
チャーマーズは「なぜ脳の物理的過程が主観的体験を生むのか」という説明不可能な残余があるとしました。デネットは、その残余は錯覚で、クオリアやハードプロブレムを実体化して考えるのが誤りであり、科学はイージープロブレムを解けば十分とします。
感覚的質
確かに、赤を見ると「赤い感じ」を報告し、痛みを「痛い」と感じ、これらは心理学的神経生理学的現象として扱えるし、経験科学の対象としても十分に意味があります。しかし、それを言葉で説明不可能で、他者には不可視で、内的に直接与えられ、物理的過程とは異なる実体(クオリア)として定義するのは飛躍で、このようなインフレしたクオリア概念は、実際には観察・報告・学習・記憶・言語使用の機構に基づく自然現象を、誤って形而上学化したものです。
デネットも感覚的質の現象(「痛い」「赤い」と感じること)は事実として認めますが、それは、情報処理や報告の機能的側面として理解されるべきであり、内在的・私的・非物理的な実体としてのクオリアを想定する必要はないとしています。否定されているのは概念のインフレであって、経験の存在そのものではありません。
クオリアは1.直接的に与えられる(意識体験に即して、推論なしに直観的に知覚される)、2.私的である(他者と完全には共有できない)、3.非物理的に見える(物理記述では捉えられない「感じ」がある)、4.内在的である(他の関係とは独立した固有の質を持つ)という性質があります。これらの特徴はセラーズが批判した「与件の神話」を再演していると言えます。
セラーズの与件の神話批判
セラーズによると、経験論者たちは”知識は、まず与えられた感覚的データ(赤い感じ、痛い感じなど)の直接的知覚から出発する。これらの与件は概念を必要とせず、判断に先立つ「確実な土台」である”と考えていたとし、セラーズはこれを神話と呼びました。「与件」は実際には概念的判断の内部でしか意味を持たないからです。「これは赤い」「痛い」などの知覚報告は、すでに言語的・概念的枠組みに媒介された行為であり、“純粋な”感覚データなどという非言語的前判断的な素材は存在しないとします。
チャーマーズの議論は、「私たちには直接的に与えられた主観的経験(クオリア)があり、それがすべての認識や意味づけの基礎となる」という前提に立ってますが、この考え方は、与件の神話を前提にしています。つまり意識体験は理論や文脈、言語的規約によらず即自的に非推論的に与えられるという想定です。これがそのまま古典的な基礎づけ主義的構造を形成します。
基礎づけ主義とは、知識体系を”1. すべての知識は、最終的に何らかの「確実な基礎」に依存する。2. その基礎は、それ自体で正当化を必要としない(自己明証的な与件)”とする立場です。チャーマーズ的な議論では、この「確実な基礎」に主観的経験そのものが据えられています。チャマーズにとってクオリアは、いかなる理論的記述にも先立って自明に存在する第一のデータです。
この発想が「素朴」であるのは、「与件」や「感じ」はすでに言語的概念的構造の中で識別される対象であり、純粋に与えられるものではないからです。「感じがある」と言うためには、我々はすでに「感じ」という概念の使い方を学んでいます。したがって、クオリアを「認識の基礎」とするのは、実際にはその上に立つ概念的構造を見落としています。
素朴な疑問へのデネット的応答
“・意識体験に伴い区別可能な何らかの感覚的な質が存在するという仮定は経験科学の言語でも十分流通しているのではないか(どの程度認めるにせよ)
→イエス。感覚的質についてはあるレベルではある。つまり存在論的にはないが、記述・行為・制度の中ではある、と言えます。ただそれを形而上学的なクオリアとして定義するのが不合理で、そのようなものの存在の根拠が主観的な経験だけで、クオリアはその印象を過度に一般化した概念で、科学の操作的定義ではありません。
・それが物理主義的な要素に還元されるとは言えないという議論は科学と反すると必ずしも言えるのか
→そもそもクオリア自体が形而上学的な極端な存在論的な定義なのが問題。例えば認識論の埒外にあるような自然科学の記述の射程外にある存在を前提にすることが非科学的とは言えないが、クオリアは概念的にインフレした認識論的タームで、科学の操作的定義では有用でないのです。
・チャーマーズの設定とは何か
→チャーマーズの意識のハードプロブレムは、クオリアの存在を前提に「主観的現象は因果的に説明、還元できない要素をはらむから機能主義は誤り」という要旨だけど、そもそもクオリアの定義自体がインフレしてるために問題設定自体が疑似問題で、強い仮定に依存する循環論法(クオリアが因果的に説明できないことを示すために、あらかじめクオリアを説明不可能なものとして定義している)なので、機能主義への有効な批判ではありません。
キムとかデイヴィッドソンとかチャーマーズとか非機能主義は心の哲学の認識論における言語哲学の残滓みたいなもので、意識や心についての説明より、心を語るメタ言語と物理的記述の調整になってる感じで、こんにちは説明的でありません。
チャマーズも内在的に破綻してますし、デイヴィッドソンのやろうとしたことも心についての意味論のメタ言語的叙述になっていて、意識や心についての因果的説明は非法則的として完全に説明を投げてるので経験的な環境適応の事例について全く説明できず、キムはそれに対する批判意識から心的因果を分析的に担保し、非機能主義を救おうとしたけど結局内在的に破綻して物理一元論に転向した感じです。



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