PR

クオリア逆転とは。デネットの批判も含めて解説

倫理,哲学
記事内に広告が含まれています。

コンテンツ

クオリア逆転とは

クオリア逆転とは、人間が外界の刺激に対して示す行動や言語表現、あるいは脳内の情報処理が完全に同一であっても、その人が主観的に経験しているクオリアは実は異なっているかもしれない、という可能性を示す思考実験です。

 もっとも知られた例は、私が赤いリンゴを見たときに感じる“赤い感じ”と、他者がまったく同じ状況で感じる“赤い感じ”とが、実は質的に入れ替わっている、つまりその人は私が緑を見たときのような質感を経験しているにもかかわらず行動や言語は「赤」と一致してしまう、という逆転スペクトラムの想定です。

クオリア逆転の問題

 この思考実験が投げかける核心的な問題は、「心の内的側面は外的行動から本当に推論できるのか」「機能主義や物理主義は、クオリアを十分に説明しうるか」ということです。行動や脳内の因果構造を完全に一致させても、クオリアはなお違い得るとすれば、心的状態は物理的機能的特徴だけでは決定されないことになります。

 歴史的には、クオリア逆転の発想はジョン=ロックまで遡り得ます。ロックは、赤や青などの感覚的性質は外界に固有の属性ではなく、心がもつ表象の一種であると考えたものの、そのときすでに、他者の経験する赤は、自分と同じとは限らない、という懸念が含意されていました。20世紀以降、心の哲学と認知科学が機能主義や計算主義へ傾斜するにつれ、逆転クオリアは機能主義の十分性を問うテストケースとなりました。

 機能主義によれば、心的状態とはその因果的役割によって定義されます。たとえば「赤を見る」という状態は、「一定の波長の光刺激を受けたときにAという行動を起こし、Bという報告をし、Cという内部表象を活性化する」などの、認知的・行動的機能のパターンによって決まります。しかしクオリア逆転は、こうした機能が完全に一致しても、なお経験質だけは異なりうる、と主張します。その場合、機能主義は心の質的側面を捉え損ねていることになり、意識の本質を説明しきれないことになります。このような直観は、デイヴィッド=チャーマーズが提起したハードプロブレムにも直接つながります。

デネットの機能主義からの応答

 しかし、クオリア逆転を批判的に扱う立場も少なくありません。とりわけダニエル=デネットのような強い反クオリア論者にとって、この思考実験は「誤った直観」に基づいたものだとみなされます。デネットは、クオリアを機能や報告構造から独立した“純粋な質感”として理解すること自体が誤りであり、クオリアという概念は、私たちが内省的に付与した曖昧な観念にすぎないと論じます。行動・報告・区別可能性・注意配分・認知操作といった豊富な機能的指標が完全に一致するなら、そこに異なる質感を持ち込む余地はなく、逆転クオリアという想定は、言語ゲームや認知的役割から切り離された形而上学的な虚構として退けられます。

 この批判の核心は、質感を単独で記述可能な内部対象として想定することの可否にあります。もしクオリアが、行動・報告・知覚的区別といった外部化可能なパターンに依存して意味づけられているのだとすれば、それらが完全に一致する状況で内部では違う質感があると主張することは、ウィトゲンシュタイン的には私的対象の想定に相当し、概念的基盤を欠くことになります。

 一方、デネットほど強い立場を取らない、中間的な自然主義・準実在論的アプローチも存在します。この立場では、クオリアは完全に否定されるわけではなく、人間が制度的機能的に区別する現象としては実在すると認められます。

 しかしその実在は、社会的認知的行為論的なホーリズムに依存しており、内側に本質的質感の核があるとはしないのです。こうした道具主義的準実在論的立場からすると、クオリア逆転は概念上描けるように見えても、我々の理論的装置・行動的基盤・自然主義的世界観のいずれからも正当化されず、実質的な内容を欠いた仮構となります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました