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マッキーの錯誤理論について解説。その歴史的意味と限界について

倫理,哲学
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錯誤理論

錯誤理論でマッキーがやろうとしたのは、単なる道徳懐疑論ではなく、むしろ当時の主流だった意味論・形而上学・自然主義の三者を同時に満たすための高度な調停でした。道徳言明は表面的には明らかに事実記述的で、推論にも量化にも条件文にも普通に入り、だから意味論的には認知主義、真理条件意味論を捨てる理由はないとするのです。

 一方で、その真理条件を満たすような非自然的・客観的・必然的な価値性質を措定するのは、形而上学的にあまりにも不自然で、自然主義とも整合しません。そこで意味論は厚く、存在論は薄くという構図を取ります。意味は真理条件的ですが、その真理条件は世界によって満たされておらず、道徳言明は体系的に偽である、とするのです。

この構図の巧妙さは、単に「道徳は嘘だ」と言うのではなく、なぜ我々があれほど自然に道徳的推論を行い、論争し、説得し、批判し合えているのかを、意味論の側で説明し切ろうとした点にありました。非認知主義では、当時はフレーゲ=ギーチ問題が立ちはだかりました。否定や条件文や間接話法の中に入った道徳文が、どうして同じ意味を保ち、論理的に振る舞えるのかの説明を避けるために、錯誤理論は真理条件意味論を捨てない(認知主義をとる)という選択をしたのです。だから反実在論でありながら、意味論的には実在論者とほぼ同じ装備を持つ、厚い立場になったのです。

意味論の変遷

 しかしこの戦略はフレーゲ=ギーチ問題が本当に致命的な問題であるという前提に強く依存していたのでした。しかしその前提自体が、現在ではかなり揺らいでいます。20世紀後半の分析哲学では、”意味論=真理条件”、”論理的構成=命題内容の保存”、という枠組みがほぼ自明でした。しかしその後、動的意味論、更新意味論、ゲーム意味論、推論主義、さらには計算機科学由来の操作的意味論や型理論などが浸透してくると、「意味とは何か」「推論とは何を保存しているのか」という理解自体が多元化します。

 この流れの中では、フレーゲ=ギーチ問題は意味論一般にとっての原理的難問というより、ある種の意味観を前提したときに生じる技術的問題に近いものになります。行為論的・プランニング的・コミットメント更新的な枠組みを取れば、道徳文が論理的構文の中で安定的に振る舞うことは、必ずしも真理条件の同一性に訴えなくても説明できるものです。ギバード型の表現主義が典型だけど、そこでは問題は真理を保存しているかではなく、実践的立場や計画の整合性がどう維持されるかになります。フレーゲ=ギーチは、理論の設計課題ではあっても、もはや理論選択を左右する決定打ではないのです。

錯誤理論の限界

 そうなると、錯誤理論の存在意義はかなり痩せていきます。というのも、錯誤理論が背負っていた最大のコストは、真理条件意味論を守るために、道徳言明をすべて偽だと宣言するという点にあったからです。もし真理条件意味論を守らなくても、推論・規範性・実践的拘束力を十分に説明できるなら、そのコストを払う理由は薄れます。しかも錯誤理論は、道徳実践がなぜこれほど長期的・安定的に機能してきたのか、なぜ人々が自分たちの言語実践を「誤り」として修正しようとしないのか、という点では、どうしても外在的な説明に寄りがちになります。進化的錯覚、便利なフィクション、社会的潤滑油といった説明は可能ですが、規範実践の内在的自己理解を十分に尊重しているとは言いにくいものです。

 非認知主義や準実在論、行為論的アプローチは、最初から道徳言語は何かを記述するためのものではないという地点に立つことで、錯誤という語自体を必要としなくなります。そこで問われるのは、真か偽かではなく、有効か、整合的か、協調を可能にするか、といった実践的評価軸です。

 錯誤理論は応答しようとしていた真理条件意味論が唯一の意味論であり、フレーゲ=ギーチが非認知主義の致命傷である、という設定自体が、もはや支配的ではなくなったと言えます。その結果、錯誤理論は解決策としての鋭さを失い、むしろ不要に高コストな立場に見えます。

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