コンテンツ
古代、中世、近代の関係主義
「時間は存在するのか」という問いは、形而上学における最も根本的な問題のひとつです。しかしこの問いが意味する「存在」とは何か、また「時間」が何を指すのかによって、答えは大きく異なります。古代以来、哲学者たちは「時間」を実体的な存在とみなすべきか、それとも関係的構成的な概念とみなすべきかの間で揺れました。
アリストテレスにとって「時間」は、世界に独立して存在する実体ではありませんでした。アリストテレスは、時間を「運動の数」と定義し、「時間とは運動における“前”と“後”の数えられたものである」としませ。つまり時間とは、運動(変化)と知的主体(数えるもの)との関係的生成物です。それ自体が世界のどこかに「ある」わけではありません。運動や変化がなければ時間もなく、またそれを数える意識がなければ時間は現れないのです。
このアリストテレス的関係論は、「時間は独立した実在ではなく、存在者間の関係的秩序である」という方向性を開いたのでした。
キリスト教神学者アウグスティヌスは『告白』において、過去も未来も存在せず、存在するのは現在のみとしました。過去はすでに失われ、未来はまだ到来しておらず、時間は外界に実在するものではなく、魂の意識の伸張としました。すなわち記憶・期待・注意という三つの意識的働きの総体です。時間は、存在論的なものから現象学的・意識論的な次元へと移行します。アリストテレスが「運動の関係」としていた時間を、アウグスティヌスは「意識の関係」として解釈したとも言えます。
カントにおいて時間は再び理論的普遍性を与えられます。カントは『純粋理性批判』で、時間を外的世界の属性ではなく、人間の感性的構造の形式とみなしました。時間も空間も、我々が現象を経験するためのアプリオリな直観形式です。すなわち、世界に「時間がある」のではなく、我々が世界を時間的にしか知覚できないのです。カント的観点は、後の現象学や相対論的時空論の基礎的発想にもつながります。時間の客観的実在を否定しつつ、主観的必然性としての時間構造を確立したものです。
マクタガートの時間論
20世紀初頭、J.M.E.マクタガートは時間そのものが論理的矛盾を含むため、実在しえないと主張しました。マクタガートは時間の表現を二つに区別し
A系列を”過去-現在-未来という流動的系列(現在の変化を伴う)”、B系列を”前-後という固定的系列(順序だけが存在する)”とわけ、時間が本当に流れるためにはA系列が必要だとしました。しかし同一の出来事が「未来であり」「現在であり」「過去である」といった互いに排他的な属性を持つことは矛盾で、この矛盾を回避するためにB系列のみを残せば、流れが失われて静止した秩序になります。ゆえにA系列は矛盾し、B系列は時間でありません。したがって、時間そのものが非実在である、という結論に至りました。
ただしこの議論は、時間の概念を使って時間の矛盾を示そうとする循環を含み、またA系列の「流れ」を前提的に実在視するため課題もあります。
相対性理論以降。永遠主義と、現象的時間の両立
またマクタガートが「A系列を否定し、B系列では不十分」と述べたのに対し、後の哲学者たちはB系列だけを実在的に認める立場を取りました。これが「永遠主義」あるいは「ブロック宇宙論」です。
この立場では、過去・現在・未来のすべての出来事が時空内で等しく存在しており、「時間の流れ」や「現在の特権性」は物理的には主観的錯覚にすぎないとします。現代物理の相対論的宇宙観(四次元時空)とも整合的で、現在では時間論における事実上の通説的世界像となっています。
アインシュタインの相対性理論以降、時間と空間は分離不能な「時空」として統一されました「同時性」は観測者によって異なり、宇宙全体に共通の「現在」は存在しません。この意味で、時間の「流れ」や「今」の特権性は物理的には存在しないといえます。
物理学においても哲学的普遍主義と同様に、「流れる時間」は主観的・派生的現象として扱われるのが通説です。
B系列的永遠主義は論理的には整っているものの、私たちが体験する「生成」「変化」「今の生起」の感覚をただの錯覚と片づけるのも疑問が起こります。たとえば現象学派(フッサール、ハイデガー)は、時間の流れを外的世界の属性ではなく、意識の志向的構造として再定義しました。
プライスやブオノマーノ
人間の脳は開放系として、外界の高エントロピーな刺激を内部で情報的に圧縮・構造化(コード化)し、記憶として固定するからこの不可逆な記憶形成によって、主体は過去にのみ情報的痕跡を持ち、未来に対しては予測しか持たなくて、この情報アクセスの非対称性こそが、物理法則自体には含まれない時間の向きを主観的に経験させる、というのがプライスやブオノマーノの趣旨です。
人間は時間的なパターンの処理に優れていて(時間軸付きの確率的状態遷移を本来的な予測・計算資源として使う。静的な記号処理より動的パターン認識が得意)、特化したコンテクストがあるから、連想は芋づる式にしか出てこなかったり、命題的内容よりもそれをもっと情報量の大きい歌(冗長性、制約条件の大きい)で覚えたほうが覚えやすかったりするものの、結局それが情報のコード化の形式(プロトタイプ的な、時間的・連続的・文脈依存の確率的ネットワーク)に依存しています。
エントロピー増大は、時間対称な物理法則のもとで特定の境界条件を前提とした統計的記述だからそれ自体は時間の向きを含意しないけど、主観的時間の非対称性は、記憶と予測という情報アクセスの非対称性を持つ 認知主体の記述に依存して成立するもので、プライスやブオノマーノはマクダガート以降のB系列主義(永遠主義、ブロック宇宙説などの実体としての時間)とA系列(現象的時間)の両立論的展開の潮流といえます。



コメント