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科学的実在論とは何か
科学的実在論のスタンスは戸田山の知識テーゼ、独立性テーゼなどによって説明されます。
独立性テーゼとは、世界は人間の認識・理論・言語・社会的構築から独立して存在する、というものです。電子や惑星の運動は、私たちがそれを「どう記述するか」に関係なく存在します。相対主義や構築主義(「科学的対象は人間の認識や社会的文脈の産物」)と対立します。
知識テーゼとは、十分に発達した科学理論は、世界について(少なくとも部分的に)真であり、知識を与える、というものです。進化論、量子力学、DNAの二重らせん構造といった理論は、自然の構造を実際に記述している、とします。道具主義の「科学理論は予測や操作のための道具にすぎず、真偽は問題ではない」、のようなスタンスと対立します。
科学的実在論の古典的な、強いレベルのそれは対応説として整理されます。対応説は、真理とは、言明や理論が世界のあり方と対応することとします。「電子は負の電荷を持つ」という命題は、もし実際に電子が負の電荷を持つなら真です。
知識テーゼの問題
結局、多くの現代の科学哲学が知識テーゼをデフレ的に設定、解釈することであるレベルで意味論、認識論的次元での真理を担保するものです。戸田山先生のそれも独/知=ある/ない、といえばそうな気がします。
パトナムの科学的実在論からの離脱もそうですが、認識論、意味論的な特徴づけが極端なのに加えて、存在論の次元でもそこで前提とされる客観的真理が原理的に不可知論的存在で、ブラックホールなどと異なり仮説的アブダクションとして設定して、事後的な観察で経験的に確かめられることもあり得ません。
知識テーゼが強すぎるので、”科学的実在論”と”真理論的相対主義”の間に、”真理はあるレベルではあるけど、知識テーゼ的認識論,意味論的スタンスとそれに特徴付けられる真理の存在は受け入れがたい”がたくさんあるのです
科学的実在論/反実在論というと、後者を科学的存在についての存在論的相対主義みたいに捉える人がいるものの、構築主義とかそういう例もあるけど、そうでないほうが科学哲学では多数で、科学的実在論は基本的に、”脱宗教化した科学的プラトン主義”という感じです。
しかも脱宗教化していても、真理は宗教における神と存在論的な位相ではあまりかわりません。
ハッキングなどの実践的実在論ならともかく、選択的実在論や構造的実在論も、結局科学的実在論の知識テーゼに係る根本的な不可知論、形而上学的負荷、検証可能性の課題を解消できません。対応説にかかる意味論的な部分を緩和したくらいで、本質的にそうかわらないものです。
中、後期パトナムの応答
パトナムの中期の真理論(内在的実在論)は、科学的対象の存在を否定するものではなく、形而上学的な「対応としての客観的真理」を退ける立場。
真理は、観測や認識の実践を通じて構成的に正当化されるものであり、その必然性も、歴史的に共有された規約の中で合理性や自然との関わりによって訂正可能なものとして理解されます。これは、規約主義的要素とプラグマティック自然主義の折衷といえます。
形式的な哲学史区分では、パトナムの中後期は 「科学的反実在論」 に括られるのが普通です。ただし自身は「実在論の一種」と見なしており「規約主義や相対主義の極端な形」と区別することは重要です。
基本的にクワイン以降の流れで、観察、観測や認識論的正当化のプロセスのはらむ不確実性を内在的に説明し、不可知論的で検証困難な科学的実在論の想定する強い対応説へのコミットメントを避けようとするスタンス。
一般的に科学的実在論は、存在論、意味論、認識論における科学的対象との対応説を唱える立場と形式的に分類されるから強い主張。パトナムも対応説を避けて認識論的不確実性を内在的に説明します。
科学的実在論のいう「客観的真理はある」は、存在論、認識論、意味論において強い主張なので、それをパトナムは否定するから形式的には反実在論だけど、認識論の不確実性を内在化したかたちで、制度や枠組み(科学共同体、言語実践、探究の規範)を通じて、客観的真理を承認する、って感じです。
意味論では「対応説的意味論」を退けて、内在的な枠組み依存性を強調し、認識論では「不確実性を内在化した制度的客観性」を強調し、存在論では「理論に基づいた実在」を受け入れるが、それを神の視点から保証しない、くらいの感じで、存在論はそんなに科学的実在論と大きな距離はありません。
認識論の「科学的理論は真理に近づいていく」「観測できない対象についても信頼できる知識を与える」という主張と意味論の「科学理論に出てくる言葉は真に指示を持つ」という主張が強いけど、存在論は、反実在論者も強く懐疑を挟まないしそれに認識論的な合理性からしか正当化できない、くらいです。
パトナムの初期は形而上学的負荷が極端に大きいが、中期から後期はそうでもなくて、構成的な真理説を取る。けど若干負荷も大きい。
“客観的な真理/事実”と言っても、認識論、意味論、存在論的スタンスが違うから、所謂科学的実在論におけるそれとはかなり乖離があります。
コーネル実在論の問題
基本的に広義の反実在論である種の実在論的スタンス取る人は多い(中〜後期パトナムなど)けども、反実在論も、科学的対象の存在論の次元で強い反実在論やデカルト的懐疑を措く論者は少ないです。もっぱら意味論、認識論的次元をデフレするのが理論的に安定的です。
メタ倫理もギバードのクワジ実在論(自然主義非認知主義反実在論)的ベクトルで、意味論や存在論における道徳的真理や、道徳的事実の存在を強いレベルで認めなくても、自然的事実の基盤(進化、社会的条件)に特徴化・拘束される価値や価値的実践に、普遍化の根拠(正当性)も規範性の根拠(従う合理性)も説明可能と思います。
実在論も認知主義も、存在論的前提についての懐疑は、「信じろや」としか言えないし、自然主義とのインターフェースもそれと対立的だと思います。
コーネル実在論のなかではボイドはマシな方だけど、それでも相当無理があります。
全体的に経験科学のモデルベースなんだけど、道徳に敷衍できそうにないよな。科学は”なぜ科学的真理にアクセスできるか?”を”進化論的に観測に適応した感覚&方法論的な検証”で説明できるけど、道徳は進化で得た直観が適応の産物だとすると真理接近性を担保できません。
コーネル実在論が「進化が与えた直感がそのまま真理じゃない。理性的反省、試行錯誤、文化的洗練を経てそれにアクセス/接近していく」と言っても、結局は 「なぜその反省や洗練が、存在論的に独立した真理に接続しているのか」 という疑問が残ります。
非目的論的な進化ゲームで適応の結果、存在論的に未知のドメインにアクセス、接近できるようになるっていうのは、漫画とかで”よくわからんけど主人公たちへの共鳴からAIに自我や道徳的理性が芽生えた”みたいな話です。
ボイドの自然種の議論は科学的実在論における選択的実在論や構造的実在論の戦略に近いけど、クラスターの定義や同定も選択的/構造的実在論で無理なのと同様不可能だし、それが真理にアクセスする根拠も、理論的前提以外になにもありません。



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