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ビデオゲームの意味論
ビデオゲームは行為のシュミレーションとインタラクティブなフィクション性のハイブリッドな制度としての芸術で、内容は「メカニクス/フィクション × 統語論/意味論」の4層モデルで理解できるけど、各層はそれぞれ異なる制度的合理性(フィクションは”物語的因果性、一貫性、再現性”、メカニクスは”可読性、操作性”)で最適化されていて、ベイズ確率論的な擦り合わせ(“Prior = おもにフィクションで要求されるイメージ・世界観””Likelihood = おもにメカニクスとして成立するかの操作性・ゲーム性・バランス””Posterior = 開発者が最終的に採用する仕様や演出”で、それによる階層ベイズ、多人称ベイズ)(齟齬=予測誤差、その処理=ベイズ的折衷、解としての仕様=Posterior)の中で起こるズレは原理的に避けられないもので、『龍が如く』でムービー(フィクションの意味論)だと銃が強いのにゲームメカニクスの意味論では戦闘中のダメージが中程度なのがその例。むしろ『ジャッジアイズ』で八神が致命傷を負うと通常では回復不可能なダメージを受けるのはメカニクスの設定としては最適化されておらず不合理と評価されがちです。
ゲームに固有というかハイブリッドなマルチモーダルメディアに一般的な構造で、キューブリックのフィルムとかは、キッチュなヨハン=シュトラウスのBGMをグロテスクなシーンに流して、認知的、制度的予測を裏切る不快さがバロックな想像力を喚起します。
ゲームではそれは動的更新され、行動にフィードバックするので、ズレそのものがゲームの美学の中心的トピックになる。バイオ8みたいに、やたらゲームメカニクスにおける戦闘で打たれ強いイーサンが、フィクションの意味論の伏線になったりもします。
プレイヤーの存在論
あとプレイヤーも、アバター式とかの例もあるけど、基本的にフィクションの意味論では透明な存在で、アバター式の主人公だってメカニクスの意味論や統語論の存在者としてのプレイヤーに言及するわけでもないし、ダンガンロンパ3とかパラノマサイト、ガンパレード=マーチみたいに、フィクション上で透明な存在だったゲームメカニクス上の行為者であるプレイヤーに意味が与えられることもあるけど、それは「ゲームメカニクスの変数にインタラクティブに介入しベイズ的スコア最適化が制度的にアフォーダンスで要求され、フィクションの意味論に介入する」というインタラクティブ性を担うプレイヤーの特性が確率的近似からフィクションの意味論で描写されます。そこでは、フィクションとメカニクスの意味論の確率論的すり合わせにおける発見的美学的再現が想像力を喚起します。
すり合わせの例
すり合わせの例だと、他に『アンチャーテッド』シリーズは、ゲームメカニクスの意味論の変数に言及する指標の表示を極力控えて、映画のフレームに近似させつつ、全体的にパルクールとTPSのルーティンが過剰に目立つけど、それをアラン=ドワン的な無国籍な剣戟映画、シリアルの新古典主義的パロディとして、「ジャンルのお約束」という近似性からフィクションの意味論的な表現の合理性を与えています。
ゴーストオブツシマもそれと近いけど、ゲームメカニクスの変数に言及する指標の表示を抑えて、目的地を風向きというフィクション内の意味論に内在的な表現で示しています。
他のメディアでは映画から小説、小説から映画のような翻案作品に見える再現の機知だけど、それぞれのメディアにおける意味論、統語論的デザインが違う中で、確率的近似性から別のメディアで対象を再現、シュミレーションする戦略の発見性に見える既知が想像力を喚起して、それはジョイス『ユリシーズ』などに見える神話的象徴の手法とも重なります。コーエン兄弟監督『オー・ブラザー!』やレヴィンソン監督『ナチュラル』、伊丹万作監督『赤西蠣太』なども、そうした意味論統語論的すり合わせのなかで起こる洗練された発見的な原作や原案、元ネタの小説の発見的シュミレーションが想像力を喚起します。
アート作品一般の美学的再現は観客の心理的モデルに対して”予測可能性(prior)””驚き・発見(likelihood.観測データ)””新しい意味体系(posterior)”を与えるものとして形式化できるけど、そのような発見的すり合わせがゲームの美学的資源になります。



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