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言語ゲーム論について簡単に解説。真理論の射程。セラーズ派との関係。

倫理,哲学
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言語ゲーム論の背景

 「言語ゲーム論」は後期ウィトゲンシュタインの哲学で中心的な概念です。とくに『哲学探究』において展開されます。

 前期ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「世界=事実」「言語=世界を写しとる論理的像」と考えましたが、後期ではその枠組みを捨て、言語の柔軟さ、実践性に注目しました。

 他方で言語ゲーム論は、哲学的な混乱(たとえば「心とは何か」「意味とは何か」といった抽象的問い)が、言葉の使い方を誤解することから生じる、という洞察につながります。

 哲学の役割は新しい理論を打ち立てることではなく、言語の実際の用法を整理して誤解を解くこととされます。

言語ゲーム論

 基本的な考え方として、言語の意味は使用によって決まるというものがあります。つまり、言葉の意味は辞書的な定義や対応する対象に固定されるのではなく、その言葉が実際にどのように使われているか(使用の仕方)によって決まるのです。

 言語の使い方には社会的に共有されたルールがあり、ゲームと同じようにルールを守ることで成立しています。そのルールは厳密な法則ではなく、ある程度「家族的類似」によってつながった多様なものです。

 日常言語の中にも、命令する、質問する、報告する、祈る、歌う、計算する……など多様な小さなゲームがあり、それぞれの文脈で言葉の意味が規定されます。言葉の意味は一義的・固定的ではないのです。

 またウィトの言語ゲーム論における静寂主義はルーマンとかエスノメソドロジーとかみたいな実践に内在的な記述を促す感じで、言語ゲームについて“実在論””反実在論”といったメタ的・存在論的記述を付与すること自体がカテゴリー錯誤であり不合理だとするようなものですが、蝶番命題や生活形式の設定からすると意味論や真理論に内在的な厚みがあって、ならば言語ゲームについての内在的な記述としての実在論や反実在論は便宜的にいいうるだろうし(そもそも静寂主義の徹底では言語ゲーム論自体が自己言及的に自壊するから、道具主義的方法論と取るのが穏健でマクダウェルとかもそういう趣旨)、それを参照する超越論的実在論への批判としての後期パトナムの内在的実在論と近いものです。

セラーズ、セラーズ派との比較

 ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論はセラーズと似て「まず思考、それを言語が運ぶ」という発想を疑い「関係・共同体・言語実践が先行し、その中で思考や意味が生まれる」とみます。


 こんにち経験的には言語抜きの思考は認められてるけど、ウィトもセラーズも言語抜きの経験の存在は否定しないけど、それを思考とは呼ばない感じです。

 セラーズにとって、感覚的経験は言語以前にも起こるけど、それはまず感性的表象で、それが認識論的な役割をもつのは、言語的・概念的実践の中で自己言及的・再帰的計算が可能になり、理由の空間に位置づけられる場合で、言語は現実との因果的接触を認識として編成する規範的枠組みです。例えばそれによれば、AIが現実を理解するために、視覚・触覚・空間感覚のマルチモーダル処理(空間的一貫性、持続的対象性、操作可能性のある)は感性的表象に厚みを与えて因果的な次元では有用だけど、規範的な振る舞いにおいては不可欠なものでもなさそうになります。

 セラーズ左派(ブランダム、ローティ、マクダウェル)は、言語抜きの思考にネガティブだけど、右派(デネット、ミリカン)とかは規範や言語的実践的基盤を自然主義的に定義づけるからそれに肯定的です。

 またローティ、ブランダム、マクダウェルは、直接後期ウィトゲンシュタインから影響されています。

真理論的射程

 『論理哲学論考』(前期)では「真理は命題と事実の写像関係によって定まる」という「写像理論」を採用していました。

 『哲学探究』(後期)以降では、そのような一義的な真理対応関係は否定され、「真理」もまた特定の言語ゲームの中でどう使われているかによって意味づけられると考えられます。

 「これは正しい」「真実だ」という言い方は、科学の言語ゲーム、法廷の言語ゲーム、日常会話の言語ゲームなどでそれぞれ異なる機能を果たすのです。

 したがって「真理とは何か」という哲学的問い自体が、本質を探すのではなく、言語の多様な使い方を見て整理すべきものになります。

真理論への影響

 ウィトゲンシュタイン的な視点は、その後の真理論の多元主義や道具主義的理解に影響を与えます。

 例えばデフレ―ション主義(冗長説・ミニマリズム)「~は真である」と言うのは、単に「~」と言うのと同じで、余計なメタ言明にすぎないとします。「真理」という概念を独立の本質的対象とせず、言語使用の機能に還元する点でウィトゲンシュタイン的です。とはいえこれは直接の影響というよりは、並行的進展を見せた感じのものです。

 直接影響したのは真理多元論のクリスピン=ライトなどです。科学的記述、倫理的判断、美的評価などでは「真理」の機能が違うとし、言語ゲームごとに異なる「真理の基準」が働く、とします。

 後期パトナムも、「真理」は固定的対応関係ではなく、言語実践や社会的合意の中で機能する概念だとする言語ゲーム論を部分的に参照します。

日常言語研究への影響

 ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、オースティン、ストローソンらの日常言語哲学に直結しました。「意味は使用にある」という視点は、発話行為論(オースティン)や発話の力能・含意論(グライス、ストローソン)へ受け継がれます。

 哲学は抽象的理論構築ではなく、言語の実際の働きを精密に記述する営みだという理解を継承します。

規範的実践への見通し。ブランダム

 ブランダムは、ウィトゲンシュタインやセラーズの系譜に立ち、推論主義的意味論を展開しました。

 意味は使い方にあるというウィトゲンシュタインを継承します。ただし「使い方」とは、単なる習慣的用法ではなく、発話が規範的にどんな権利や義務を伴うかという点に注目するのです。

 発話することは、共同体の中で「理由を与えたり要求されたりするゲーム」に参加することとします。これをブランダムは与えると求める理由のゲームと呼んだ。

 ウィトゲンシュタインは「言語は多様なゲームの集合体」と考えましたが、ブランダムはその中核を推論的、規範的実践に見たのでした。言語ゲーム論の「使用に意味が宿る」という洞察を、規範的推論のネットワークとして形式化したのがブランダムと言えます。

規範的実践とマクダウェル

 ウィトの静寂主義はルーマンとかエスノメソドロジーとかみたいな実践に内在的な記述を促す感じで、言語ゲームについて“実在論””反実在論”といったメタ的・存在論的記述を付与すること自体がカテゴリー錯誤であり不合理だとするようなものですが、蝶番命題や生活形式の設定からすると意味論や真理論に内在的な厚みがあって、ならば言語ゲームについての内在的な記述としての実在論や反実在論は便宜的にいいうるだろうし(そもそも静寂主義の徹底では言語ゲーム論自体が自己言及的に自壊するから、道具主義的方法論と取るのが穏健でマクダウェルとかもそういう趣旨)、それを参照する超越論的実在論への批判としての後期パトナムの内在的実在論と近いものです。

 マクダウェルは、 言語ゲームの外側に超越的な“世界の本来の姿”を置く実在論や、言語ゲームの内側にだけ意味を閉じこめる反実在論・クワイン的ホーリズムの極端化の両方を拒否しつつ、世界との接触そのものを言語活動に内在化する(第二自然)という調整を行います。


 自然の中に“第二自然”としての規範性(概念的空間)が含まれており、世界への応答は“我々が勝手に構築したものでも言語外の生の刺激に還元できるものでもなく、両者の中間にあるとします。


 内在的実在論の方向をさらに深化し、生活形式に根ざした規範性(概念的能力)が「世界そのものへの応答」である点を強調することで、日常言語の中で世界と接続されている構造をそのまま哲学的に可視化します。

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