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反表象主義とはなにか。異端としてのローティ

倫理,哲学
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セラーズの反表象主義からローティ

リチャード=ローティの哲学は、20世紀後半の分析哲学が到達した「反基礎づけ主義」の系譜のなかでも、最も過激で、同時に最も文学的な形態です。その思想的出発点は明確にウィルフリッド=セラーズとW.V.O.クワインにあります。セラーズが「与件の神話」批判によって、経験的知識を基礎づける感性的直観の概念を否定し、知識の正当化を社会的言語的実践の内部に移行させたのに対し、クワインは「分析・総合の区別」を拒絶し、知識全体を経験に対するネットワーク的応答とみなしました。この二つの系譜はともに、カント以来の認識論的二元論を打破し、全ての知識が制度的言語的実践に媒介されるというホーリズム(全体主義的相互依存)の立場に収斂します。

 ローティはこれをさらに徹底します。彼にとって、哲学とはもはや「知の正当化」を担う営みではなく、言語的実践の中で生じる記述の改良です。したがって、認識論的な「基礎」や「表象」といった語彙は、そのまま形而上学的残滓とみなされ、排除の対象となります。ローティの反表象主義は、心の哲学や意味論の領域においても同様に過激です。心的表象という概念を、世界を映す鏡という古典的メタファーの残影として切り捨て、「心」を一種の言語的行動的記述の効果としてしか認めないのです。

ローティの課題

 こうした態度は、セラーズ的な「規範的言語行為論」やブランダム的な「推論的意味論」の方向とは異なり、心的現象を社会的規範的拘束の次元にさえ置かないものです。ローティの反表象主義は、セラーズやブランダムが保持する規範的拘束をも放棄した、素朴行動主義的記述主義にまで後退しています。

 このため、ローティにおける「真理」や「合理性」は、いずれも内的整合性や規範的妥当性によってではなく、社会的言語共同体の中でより“うまく働く”語りとしての実践的有用性によってのみ評価されます。ローティはしばしば「真理の相対主義者ではない」と弁明するものの、その非相対主義は、単に「よりよい会話」という言い換えに過ぎません。ローティが「よりよい」と呼ぶ基準そのものが、別個の規範的枠組みを持たない実践的規約に還元されてしまうのであり、これは哲学的には相対主義の言い換え以上のものではありません。

 この構図のなかで最も深刻なのは、異なる言語的実践体系(ある共同体の語彙と他の共同体の語彙)の衝突に関する問題です。セラーズやブランダムであれば、言語ゲーム間の不一致を規範的整合性や推論的正当化の枠内で調停しようとします。しかしローティはこの問題に対して「調停不可能ならそれでよい」という立場をとり、エスノセントリズムを公然と認めます。ローティにとって、異なる言語体系間の衝突は理論的に解決すべき課題ではなく、単に「より良い語りの勝利」として実践的に収束する問題です。この立場は、哲学的にいえば対話の規範的根拠の放棄であり、倫理的政治的には文化相対主義と不可分の危うさを孕むものです。

 ブランダムはローティを反規範主義的実践主義と批判し、社会的実践の内部で意味と正当化を支える規範的拘束の構造を無化してしまう点を問題視しました。実際、ローティの「会話による真理」概念は、合理的対話や推論の制度的条件を欠いたまま、単なる文化的共感主義へと変質します。こうして彼の哲学は、理論的には哲学の終焉を宣言するポスト哲学的ジェスチャーとなり、倫理的には自由主義的アイロニーとしての寛容の美学にとどまるのです。

ローティの評価点

 ローティの思想が完全に無価値だというわけではありません。彼が哲学の自己反省を通じて、「客観性」や「真理」の名のもとに暴力的普遍主義を正当化してきた西洋形而上学の伝統を批判し、言語的多元性とリベラルな寛容を肯定する政治哲学的方向を提示した点には、文化批評的意義があります。しかしその理論的装置は、セラーズ=クワインの自然主義的反形而上学をポストモダン的にふやかしたものであり、認識論的にも心の哲学的にも持続可能な枠組みを提供していません。

 総じて言えば、ローティの哲学は、セラーズの規範的構造、クワインの自然主義的整合性、ブランダムの推論的拘束すらも解体してしまった脱形而上学的記述主義の極北です。そこでは哲学はもはや理論ではなく文化的実践の一様式にすぎず、反表象主義は心的内容の説明ではなく、語りの自由化としてしか残らないのです。

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