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マルクスにとっての宗教
『フォイエルバッハに関するテーゼ』は、人間本質は抽象ではなく、社会的実践の中で結ばれた諸関係である(第6)、宗教的態度は説明するだけでは消えず、実践的変革が必要である(第7)、 社会的現実は実践が作るものであり、分析ではなく変革によってのみ変わる(第8)ということで、そこから宗教自体との対立に向かわないし、生産関係の変革に向かうはずでしょ。
マルクスは共産主義を目指す過程で、生産関係の変革の過程で宗教が克服されると思ってたけど、それは宗教が何もしなくても自然消滅するっていう趣旨でも、それと対立すべきって趣旨でもないでしょ。それで宗教が消えないのなら、それはマルクスの思っていたような単なる疎外の症状以上のものだから、理解を示し共存すべきものでは。
症状としての宗教がなくなるかどうかはそれを批判するかどうかではなく社会的実践がどう変わるかによって決まるし、構造的条件が変わらなければ宗教は別の形態で再生産され続けるから宗教との闘争は本質的な意味がないし、生産関係の変革で消えないのならそれはマルクスが認識していた以上の社会的関係だから、民衆にとってアヘンとしてのそれに理解を示したように誠実に向き合い共存すべきものだし、マルクスならそうするよね。だから内在的にマルクスは宗教自体とは強く対決する動機もその正当化の根拠もないよね。
階級闘争から目を背けさせうるとしても、民衆の苦痛を和らげるアヘンとしてのそれに、レーニン的な教条主義的禁圧まで正当化できない。
マルクスなら宗教が克服されなかったらどうするか
もし生産関係の変革というマルクスの方法論で宗教が解消しないなら、その客観的現実を経験的反証として、マルクスとしてはそれについての態度と評価を修正せざるを得ないし、そのときにはそれ以上強く宗教を否定する根拠は内在的にないし、むしろ否定に拘泥するのが観照的態度であって、宗教が解消しないならそれを解消しない社会的条件を問うべきで、それによっては共産主義と両立しうるものになるでしょ。
レーニンやスターリンはその存在を十分共産化されてない指標として否定や暴力を向けるかもしれないけど、それはマルクスがフォイエルバッハに関するテーゼで否定した観照的態度よね。
マルクスにとって、宗教が疎外の表れであると同時に階級闘争を抑制しうる非合理な幻想であって生産関係の構造的変革で歴史的に克服すべきものであっても、宗教からの解放やそれ自体との闘争という方法は、マルクスからは方法論的合理性も倫理的正当性も与えられないから、それをするなら、レーニンみたいに外在的な論理(外部注入説や宗教の特徴づけの変更)を持ち込むしかないよ。
ブロッホのは形而上学的で別路線で筋が悪いけど、コルナイとかルカーチもマルクスの宗教(批判)観についてはそういう解釈で、文献学的にはそれが標準的理解で、グラムシとかマルクスベースの西欧の共産主義者もそれ自体と敵対しなくてそれも偏に戦略的妥協と呼べるものではなくて理論的帰結でしょ。上部構造における宗教自体との闘争やそれからの解放とか、マルクスの内在的制約から逸脱した邪道で、レーニン=スターリン主義に固有の方法論よね。
上部構造での闘争
上部構造の闘争(資本主義的生産関係を正当化・再生産する観念・制度・法・国家装置をめぐる闘争)は、生産関係を 直接的に/間接的に”再編するための実践で、単に観照的なものではなく、最終的には生産関係の組み換えに作用する力として機能するもので、そこでの闘争が必要だからといって、上部構造での闘争においてフォイエルバッハ的な宗教それ自体との闘争を掲げるのはマルクスの人間観、宗教論や『フォイエルバッハに関するテーゼ』の趣旨からしても不自然だし、批判すべきは社会的病で症状だけ止めても別の症状が出てくるだけなのでそれ自体との闘争は不毛で、病としての疎外条件を上部構造、下部構造における生産関係の変革で達成して付随的に宗教が克服されなかったら、民衆が依然それを必要とするなら、単にマルクスの宗教への評価と経験的予測が間違ってたのだし、そのときは宗教とそれ以上対立する内在的な論理はマルクスにないよね。
権力闘争としての政治的合理性として、レーニンは宗教と対立しなくてはならなかったから直接闘争しただけで、レーニンは上部構造での闘争として宗教それ自体と対決したけど、マルクスがどう言ったとかと関係ないし、そんなのマルクスが否定した観照的宗教批判の暴力的実践でしかなくて、実際マルクスが懸念したように病はそのままで別の症状やアヘンが生まれただけよね。マルクスは宗教に理解を示しつつその来世志向と現実忌避傾向が階級闘争を抑制する点で否定的に捉えてたけど、だからといって草稿やテーゼなどの趣旨からして、それ自体と闘うことを要請してないし、宗教を必要とする疎外された労働者に、階級闘争へ目を向けさせるために宗教自体と闘えと言わないよね。
上部構造における闘争と不可分のものとして宗教自体との闘争を革命党の任務として要請したのはレーニンからで、マルクスより反教権的だったエンゲルスも、宗教自体との闘争は消極的よね。
マルクスが上部構造での闘争を重視してても、上部構造における宗教それ自体との闘争は、フォイエルバッハ的な観照的批判であって、疎外におかれた民衆を慰藉するそれ自体への暴力、強力は倫理的にも正当化しにくいから、そんなこと言ってないでしょ。
レーニンがまず政治的合理性からそれ自体を敵とマルクスが上部構造での闘争を重視してても、上部構造における宗教それ自体との闘争は、フォイエルバッハ的な観照的批判であって、疎外におかれた民衆を慰藉するそれ自体への暴力、強力は倫理的にも正当化しにくいから、そんなこと言ってないでしょ。
レーニンがまず政治的合理性からそれ自体を敵と設定して上部構造でそれ自体と対決しだして、理論的には宗教を弾圧しないといいつつも暴力を実際には用いていて、スターリンが理論的方法論的にそれを継承して方法論として、より硬直的かつラディカルに暴力で制度的に弾圧した感じよね。
上部構造の存在論
そもそもマルクスにとって下部構造と上部構造は連続的で、分析に便宜的な相互浸透的な区分で、そのうえで宗教それ自体と戦うのは合理的にも倫理的にも正当化してなくて、エンゲルスは”下部構造→上部構造”という因果的に硬直的で質的に断絶的な決定論を考えつつ、宗教を”非科学的”で”空想的”な”誤った意識の現実の反映”に矮小化していて症候としての認識論的価値を落としていて、レーニンは因果的経路の次元では一方的ではないけど、二層の断絶的なモデルは継承してるから、マルクスがしたように生産関係の変革という処方箋で柔軟に宗教に応答しにくくなってて、革命党の前線を上部構造に置いて敵対的イデオロギーであり”誤った認識の反映”である宗教を硬直的に暴力でしばく、みたいな話になってくる。レーニンはエンゲルスを踏まえて”宗教を暴力的に弾圧するな”、と言ってるけど、実践的にも理論的にもそれを禁止する根拠がレーニンの哲学に希薄なんで、完全に建前になってるよね。
そもそもエンゲルスの段階で宗教の肯定的な側面が捨象されて、それを抑制する根拠がなくなってるし。エンゲルスでは、宗教は”誤った意識の産物”だから、マルクスと違って宗教自体への攻撃や暴力を倫理的・哲学的に禁止する根拠はあまりなくて、「反感を招くからやめたほうがいい」という戦術的効率性・合理性しかないので、むしろ効率的ならやることになるし、レーニンやスターリンはそうした



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