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江戸時代の風呂
江戸時代の混浴をめぐる性的規範については、一般に流布している「性に寛容な日本」「混浴が日常的な放縦の象徴だった」といったイメージは、実際の史料的裏づけに乏しい誇張、誤解に基づく面が強いです。近年の風俗史・社会史研究によれば、当時の混浴はあくまで下層町人の生活実態に根ざした「公共衛生的な施設」であり、性的放縦を象徴する文化的慣習とは言い難いのです。
まず、江戸期の湯屋(風呂屋)はその大部分が薄暗い蒸し風呂形式であり、現在のような明るい湯船文化とは異なります。湯煙が充満し、照明も乏しいため、男女が同室にいても視覚的な接触はほとんどなく、混浴とはいえ「身体を洗う共同空間」という性格が強かったのです。しかもこれらの湯屋を利用したのは主として都市下層の庶民層であり、上層町人や武士階級は自宅や屋敷内の風呂を用いることが多かったのでした。したがって、混浴という習慣は社会全体の一般的規範ではなく、むしろ下層生活文化の一断面にすぎないのです。
性的な側面から見ても、湯屋は本来「清潔を保つための施設」であり、性的な行為や表現は明確にタブー視されていました。色事に関わる女性を雇って営業した「風呂屋女」などは実際に摘発対象となっており、風呂場での淫行は社会的にも恥とされました。つまり、性的表現や交わりが許される空間は、当時から厳格に「遊郭・傾城町」などの公娼制度の内部に限定されていたのです。湯屋の混浴が問題化するのはむしろ江戸後期以降で、湯船式の普及と照明の改良により、浴場空間が明るく開放的になったことが背景にあります。視覚的な男女の接触が明確になるにつれ、風紀や羞恥の意識が強まり、幕府や町奉行による混浴禁止令が再三出されました。
外国人の誤解
混浴が「日本的性の奔放さ」として外国人の目に映ったのは、主として幕末以降のことです。1850年代に来日したペリーやハリス、宣教師・外交官・随行医師らは、ほとんどが19世紀中期ヨーロッパの上層教養階級の出身であり、ちょうどヴィクトリア朝的性道徳が極めて厳格化していた時代の人々でした。彼らの視点は、裸体や男女の混在そのものを「不道徳」「野蛮」とみなす文化的前提に立っていました。そのため、下層庶民の湯屋風俗を見たときに、彼ら自身の宗教的道徳的観念を投影して誇張的に描写したのです。こうして、西洋側の旅行記や宣教師報告の中に「日本人は性に奔放」「混浴が公然と行われている」といったイメージが形成され、それが明治以降西洋の目に映る日本的異国趣味の一部として再輸入されます。
しかし、ヨーロッパにおける近世から近代初期にかけての下層階級の生活文化を見れば、共同浴場や混住空間、共同寝室などはむしろ普通の光景であり、江戸日本が特別に性的に寛容だったわけではないです。社会の上下や場の区分に応じた性規範のあり方は、ヨーロッパと日本の双方で類似していました。むしろ江戸社会は、「公」と「私」、「清浄」と「穢れ」、「遊郭」と「日常生活」といった明確な線引きを通して性を厳格に秩序づけていたのです。
要するに、江戸時代の混浴は、性的解放の象徴ではなく、都市下層の公衆衛生的な慣行にすぎず、性的規範そのものは同時代の西洋社会とほぼ同程度に厳しく、秩序だったものでした。これを「日本的性の寛容さ」の証拠と見るのは、幕末以降の異文化的誤読と、近代日本が自己を異国趣味的に再演した結果です。



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