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個物の存在論。存在するとはどういうことか。

倫理,哲学
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記述の束説

個物の存在論において、記述の束説と指示説は、個物(個体的対象)の同一性や意味をいかに把握するかをめぐって対立する立場です。

 記述の束説は、個物とは「ある性質の束(集合)」として理解されるとする立場であり、個体性とはそれが持つ性質の全体によって構成されると考えます。たとえば「ソクラテス」という個物は、「哲学者である」「人間である」「紀元前5世紀に生きた」といった記述の束として同定されます。

 したがって、もし別の個物が同一の記述の束を持つならば、それはもはや別の存在ではなく、同一のものと見なされます。

ラッセルの記述説

 ラッセルの記述説は、記述の束説と深く結びついています。ラッセルによれば、固有名とは厳密な意味では「真の固有名」ではなく、実際には「確定記述」の省略形として機能しています。つまり、「ソクラテス」という名は単なる指示語ではなく、「紀元前五世紀のアテナイの哲学者で、プラトンの師である人物」といった記述の束を通じて対象を指す表現だとされます。

 このように、個物の同一性や意味が、その個物に帰属する性質や記述の総体によって決まるという点で、ラッセルの記述説は個物を性質の集合として理解する記述の束説と本質的に連続しています。したがって、ラッセルの理論は、言語的意味論の側面から記述の束説の存在論的立場を支えるものであり、両者は「個物=性質の束」という観点を共有していると言えます。

指示説

 これに対して、指示説は、個物の意味や同一性を記述によって媒介するのではなく、言語的指示そのもの、すなわち対象への直接的な指示関係によって理解する立場を取ります。

 クリプキなどが唱えたこの立場によれば、「ソクラテス」という固有名は特定の記述を意味するのではなく、歴史的な命名の連鎖を通じて実際の個物に直接結びついています。したがって、個物の存在や同一性は、記述的特性の集合ではなく、世界における指示の関係によって保証されます。

 記述の束説が「個物=性質の集合」と考えるのに対し、指示説は「個物=指示の対象」として、存在を言語外的な実体の側に置くのです。

それぞれのメリットとデメリット

 個物の存在論において、記述の束説と指示説はそれぞれ異なる利点と問題点をもちます。記述の束説の長所は、第一に、個物を性質の束として定義することで、われわれが何をもってそれを同一視するのかという認識の基準を明確に示せる点にあります。第二に、個物を性質の集合として説明できるため、形而上学的に独立した実体を仮定せずに済み、存在論的に節約的です。しかしその一方で、すべての性質を共有する二つの個物を区別できなくなる同一性の問題や、性質の変化をどのように扱うかという困難を抱えます。

 これに対して指示説は、個物の同一性を現実的に保証できるという強みを持ちます。固有名の指示は記述によってではなく、現実世界における因果的・歴史的連鎖によって固定されるため、個物の性質が変化しても同一の存在として扱えます。

 また、固有名の実際の使用に即しており、日常言語の直観に近いという利点もあります。ただし、指示説は、われわれがどのようにしてその対象を認識し同定しているのかを十分に説明できず、因果的連鎖をもたない架空の存在などには適用しにくいという問題を抱えます。

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