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知識テーゼとは
真理の対応説は、「命題が真であるとは、それが世界の事実に対応していることである」とする立場である。この真理観を支えているのが科学的実在論です。
科学的実在論とは、科学理論が指し示す構造や対象が現実に実在し、科学の目的はそれらを正しく記述することにあると考える立場です。戸田山和久のいう「知識テーゼ」、すなわち「我々は世界を正しく記述できる」という信念を最も強く充たすのが、この科学的実在論と対応説の組み合わせです。
もっとも、対応説と素朴な科学的実在論の主張は強すぎるため、意味論的な観点から妥協が図られたり、対応の概念をより弱いレベルに修正したりする試みがなされてきました。
例えばそれはフラーセン、ベイズ主義などですが、カントもこの知識テーゼを満たしません。それぞれ見ていきます。
フラーセンとカント
ファン・フラーセンの構築的経験論とカントの批判哲学を比較すると、両者はともに認識の限界を設定する哲学である点で重なります。
カントは『純粋理性批判』において、人間の認識が「感性の形式」と「悟性の範疇」という先験的条件によって可能になると同時に制約されることを明らかにし、われわれの経験的世界である現象界はこれらの主観的形式を通して構成されると考えました。この経験的世界の背後には、われわれの感性や悟性の条件に依存しない「物自体」が存在するとされ、カントはそれを認識不可能だが思考可能なものとして理性の限界の指標に据えたのでした。
物自体は、経験の可能性を保証するための構造的外部で、認識の到達しえない外部としての限界でした。
フラーセンの構成的経験論は、物自体概念のような前提を設定せず、科学的知識を現象の内側で完結する構築的活動として再定義します。科学の目的は世界の真の構造を把握することではなく、観測可能な現象に関して経験的に十分な理論を構築することです。
電子や波動関数、あるいは宇宙論的実体など、観測不可能な対象について真偽を問うことは無意味で、そうした存在者はあくまで理論的便宜に基づく構成物です。フラーセンはカントのように現象の背後にある実在を想定するのではなく、観測・測定・言語実践という社会的過程のなかで構成される現象の世界そのものを哲学の出発点とします。ここでの現象は、カントにおけるような何かが現れているという二元的構造ではなく、すでに現れることそのものが世界のあり方であるという、内在的で一元的な存在論的立場です。
カントが「物自体」という外部的契機を通じて認識の限界を規定したのに対し、フラーセンはその外部を前提せずに現象の内側にある科学的・社会的・言語的実践の制度的構造そのものとして再配置します。
カントの批判哲学は経験的世界を超えたものの存在を前提としているのに対し、フラーセンの経験論は経験的世界の外部を前提にしません。カントにおいては、物自体が理性の謙抑を保証する装置であったのに対し、フラーセンにおいては、そのような装置は不要であり、理性の限界は実践共同体の規範的言語構造の内側に設定されています。カントの哲学が二界論的に現象と物自体を区別することで批判の形式を確保したのに対し、フラーセンの哲学は一界論的に現象の内部の合理性を記述することで批判の実質を確保したのでした。
フラーセンとベイズ主義
フラーセンの構築的経験論とベイズ主義的科学観はいずれも、知識とは対応的に世界の真理を写し取るものだという古典的な知識テーゼ(対応説的真理)を前提せずに、科学的知識がいかにして合理的で信頼に足るものとなりうるかを説明しようとする試みです。真理の獲得よりも合理的な信念の形成や経験的整合性の確保を目的とし、対象を直接に表象するのではなく、対象との相互作用を通じて形成されるモデルや信念体系の適切性を問題にします。
フラーセンの構築的経験論は、科学の目標は世界の真の構造を明らかにすることではなく、観測可能な現象をうまく記述する理論を構築することにあるとします。うまく記述するとは、理論が観測事実と整合し、予測や説明の枠組みとして機能することを意味するものの、それは理論が真であるという対応的主張とは異なります。理論は、対象世界を鏡のように反映するものではなく、現象の内部における知的構築物であり、その信頼性は対応的真理ではなく経験的適合性によって評価されます。
したがって、科学者が理論に信念をもつとき、その信念は理論が真であるという形而上学的確信ではなく、あくまでその理論が現象をうまく説明し、観測的実践の中で成功しているという実践的承認に基づきます。ここでの合理性は認識論的写像関係ではなく、社会的・方法論的な合理性として理解されます。
ベイズ主義における知識観も同様に、知識を世界との正確な対応ではなく、確率的信念の更新プロセスとして理解します。ベイズ主義者にとって、信念の合理性は真に対応しているかどうかではなく、新しい証拠に照らしてどれだけ整合的に更新されるかに依存します。科学理論や仮説は、観測データの到来に応じて主観的確率(信念度)を更新するベイズ的推論の枠内で評価され、その信頼性は確率的整合性に基づきます。
ここでも「対象を正しく記述する」という言明は、もはや外的世界の構造をそのまま把握することを意味せず、むしろ「観測されたデータに対して最も説明力をもつ信念体系を形成する」ことを意味します。すなわち、対象との関係は写像的ではなく統計的・操作的なフィードバック関係として理解されるのです。
フラーセンとベイズ主義はいずれも、古典的実在論が前提としていた「真理=世界との対応」という構図を捨て去り、代わりに信頼性や適合性、整合性といった実践的・制度的基準によって知識の合理性を再定義します。対象を信頼できる形で記述するとは、対象を独立した実体として「再現」することではなく、対象との相互作用のなかで生じる観測的・経験的データを一貫したモデルとして整理・更新できることを意味します。
そのため、彼らにとって「知識」は形而上学的な対応関係ではなく、実践的な関与と情報更新のプロセスであり、真理とは現象的世界において成功裡に機能する構築物の安定性として理解されます。フラーセンとベイズ主義が共有するのは、「識とは対象を再現することではなく、対象との関係を合理的に構成・維持することであるというスタンスです。



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