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労働者とは
初期マルクス(『経済学・哲学草稿』など)では、「労働者」は人間一般の在り方を象徴する存在として描かれており、『資本論』以降のマルクスでは、「労働者」は資本主義的生産関係の中で特定の経済的役割を担う階級として定義されています。
『経済学・哲学草稿』では、労働者は疎外された人間一般の原型で、疎外された労働論は、資本主義の一階級を描くというよりも、人間が自己の本質的活動を他者の所有に委ねるという人間存在の普遍的病理を労働者を象徴に描いています。
『資本論』において「労働者」とは、自らの労働力を商品として売り、その労働が資本によって価値増殖(剰余価値の創出)に利用される存在なので、家事労働者や生産労働者、感情労働者は必ずしも労働者にあたらないものです。
『資本論』では労働者は「人間一般」ではなく、資本主義という歴史的制度の中で特定の役割を担う主体に限定されます。『資本論』の労働者は、疎外された人間の特殊形態で、初期マルクスが描いた疎外の普遍構造が、資本主義という制度の中で具体化されたものとして再記述されたのが『資本論』といえます。
『資本論』においては家事労働者・再生産労働者・感情労働者は労働者としての記述の射程外ですが、労働力商品化の外部でありつつも資本主義全体を支える基盤的労働形態ではあります。
マルクスの理論的根幹としての疎外論は、実際の社会的関係のなかにおかれた唯物論の主体がおかれた疎外からの解放で、『資本論』においても直接的な目標は資本主義のなかでの狭義の労働者の搾取の態様の記述と克服手段の模索でも、究極的目標は労働者に代表される人間一般の解放であるはず。家事労働者、再生産労働者、感情労働者はまさにそのような疎外におかれた主体として、唯物論的主体としての労働者の典型として、そこからの解放が目指されるべき、みたいな感じです。
マルクス主義フェミニズム
エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』を典拠とするマルクス主義フェミニズムは、家父長制を経済構造の一契機、すなわち私有財産制と女性の再生産労働の無償性による搾取構造の派生形として説明します。この立場は、女性抑圧を資本主義的生産関係の「上部構造」あるいは「派生的現象」として捉えるため、性差やジェンダー構造を経済的因果の従属変数として扱う傾向を免れません。
女性の苦痛を『資本論』の狭義労働者の搾取にもっぱら還元して語ろうとする感じです。したがって、女性の抑圧や身体的情動的経験がもつ固有の現象学的次元を見落としがちであり、その点がポスト構造主義フェミニズムのイリガライ、バトラー、ウィッティグなどから批判され、それをマルクスやマルクス主義の限界のようにも捉えられがちです。
マルクス主義フェミニズ厶が「搾取」を中心概念に据えたのは、彼女たちが依拠したマルクス解釈の位相が、疎外よりも「搾取=価値の剰余生産関係」に重心を置いていた時期のパラダイムにあったためです。現在のマルクス研究では、初期マルクスの「疎外論」と『資本論』以降の「搾取論」とを断絶的に捉える立場(いわゆるアルチュセール的「認識論的断絶」)は後退しており、むしろ両者の連続性が強調されるのが主流になっています。『資本論』単独では、唯物論的主体一般の解放を導くことはできないので、再構成するには、初期の疎外論的・実践的マルクスの哲学を媒介させる必要があります。
マルクスの真の射程
しかしマルクスの疎外論に立ち返れば、理想的な労働は単なる経済活動ではなく人間の自己実現的活動として構想されています。したがって、疎外された労働は人間存在そのものの歪みを表すものであり、女性の身体的・感情的・再生産的労働も当然その疎外の体系に含まれます。マルクスの本来の射程には、女性の抑圧を正当に位置づけうる人間学的・批判的契機がすでに内在しているのです。
またポスト構造主義者(とくにバトラーやイリガライ)は、マルクスの「人間本質」概念を固定的・普遍的本質とみなし、ジェンダー構築主義的差異を抑圧していると批判します。しかしマルクスの言うGattungswesen(類的存在)とは「抽象的な人間性」ではなく、社会的関係の総体としての人間を意味しています。それは関係的・生成的な本質であり、構築主義的主体概念にきわめて近く、マルクスは、本質を社会的実践の過程に生成的に置くことで、固定的本質主義をすでに乗り越えているし、マルクスはそもそも批判的ヘーゲリアンとして現実の社会的関係性のなかにある人間の実践的歴史的プロセスを弁証法をモデルに考えようとしたものです。
還元すると、家事労働者、再生産労働者、感情労働者は『資本論』における狭義の労働者としての記述の射程外ですが、マルクスが究極的目標として考えたのは労働者に象徴される唯物論的主体一般(家事労働者、再生産労働者、感情労働者を含む)の解放で、その批判的射程にはポスト構造主義フェミニズムなどが記述しようとする対象が、すでに捉えられているということです。



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