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文化資本とは
文化資本はブルデューの概念です。
文化資本とは、人が社会のなかで有利にふるまえるようにする文化的なリソースです。経済資本(お金や財産)、社会関係資本(コネやネットワーク)と並ぶ、ブルデューの資本概念のひとつです。
文化資本には、3つの形態があります。まず身体化された文化資本は、個人の身体や思考様式に内面化された教養・知識・話し方・センスなどです。2つ目に客体化された文化資本は、本、楽器、美術品などの文化的なモノです。単に所有するだけではなく、それを使いこなす能力(身体化された文化資本)があってこそ意味を持ちます。三番目に制度化された文化資本は、学歴や資格など、制度的に承認された形です。たとえば大学の学位は、その人の知識や技能を「公式に保証する」ものです。
ハビトゥスとは
ハビトゥスは、個人が生まれ育った社会環境や階層によって形成される 持続的な思考・行動の傾向性です。意識的に学ぶというより、無意識に身につく「クセ」「慣習」「当たり前の感じ方」です。
ハビトゥスは、ある社会階層に根ざした「感覚の枠組み」であり、そこから文化資本をどう使うか・どんな資本を獲得しようとするかが決まります。文化資本は、社会で評価される「文化的リソース」であり、それを蓄積・活用できるかはハビトゥスに左右されます。
場とは
ブルデューは場という概念を唱えます。
「場」とは、特定の社会的活動領域・競争空間のことです。その領域内で、人々は互いに「資本(経済・文化・社会など)」を用いて地位を争い、権力や影響力を獲得しようとします。
それぞれの場は、独自のルール・評価基準・力関係を持ちます。たとえば、芸術の場では「創造性や正統性」が重要で、経済資本よりも文化資本の評価が大きいなどです。
個人や組織は「どれだけの資本を持っているか」で場の中の位置が決まります。「資本の種類」は場ごとに異なることが多いです。
ハビトゥスは「場の中で行動するための感覚や戦略」を形成します。また場のルールがハビトゥスを形成します。そして、ハビトゥスが場での行動や資本活用の仕方を決定するのです。
場は単なる舞台ではなく、資本の分布を維持・再生産する構造でもあります。上流家庭の子どもは文化資本を通して教育場で有利に位置づけられ、格差が再生産されるのです。
背景
出発点はフランスの教育社会学です。
「なぜ教育が社会的平等を実現せず、むしろ格差を再生産するのか」を説明するために文化資本概念は導入されました。
教師は「生まれつきの才能」を評価しているつもりでも、実際には中産階級以上の子どもが家庭から持ち込む「文化資本」を評価している、とするのです。文化資本は、経済資本・社会関係資本と並ぶ資本の一形態として位置づけられ、「ハビトゥス」「場」との組み合わせで社会的不平等の再生産を説明する装置になったのでした。
事例分析としての文化資本
ブルデューの文化資本やハビトゥスの概念は、かなりフランス社会(教育制度・階層構造)の文脈に根ざした経験的分析から生まれています。
ブルデューが扱ったのは、フランスのエリート教育(グランゼコール vs 普通大学)や文化消費(クラシック音楽、美術など)の格差です。そのため、概念は強力でも、国や時代をまたいで普遍的な社会理論にそのまま拡張しにくいです。なのでアメリカや日本で応用するときは、制度差や文化差を補正する必要があります。
またルーマン的な意味での「社会システムの自己準拠的な理論体系」や、パーソンズ的な「AGIL図式のような包括的枠組み」とは異なり、ブルデューの理論は、概念群(資本・ハビトゥス・場)を組み合わせた中範囲理論的なモデルです。権力関係の流動性と再生産を説明する分析枠組みですが、包括的な説明力は強くもちません。
定義の曖昧さ
ブルデューは経済資本とのアナロジーで「文化資本」を提案しましたが、経済資本のように厳密に測定、換算できるわけではありません。「資本」と呼ぶことで、文化的リソースが社会的に投資・蓄積・継承そうとしましたがどこまでが「資本」といえるのかはあいまいです。
身体化・客体化・制度化の線引きもあいまいです。書物は「客体化された文化資本」ですが、それを読む能力がなければ意味を持たないので、身体化との区別は相互依存的です。学位は「制度化された文化資本」だが、実際には試験勉強という身体化資本が前提になります。
また時代、社会によって評価される文化資本的なものは変動します。結果として、文化資本の概念は「相対的・状況依存的」であり、普遍的な定義を与えにくいです。
加えて社会調査では「読書時間」「美術館訪問頻度」「学歴」などで近似されるものの、これで文化資本全体を捉えられるかは疑問です。「資本」と呼ぶほどの客観的な数量化が難しいです。



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