コンテンツ
ワトソンらの時代
ワトソンとフランクリンをめぐる論争は、単なる人物評や倫理判断を超えて、科学史とジェンダー史が交差する領域で再語り直されてきました。感情的道徳的な物語化がしばしば生じるのも無理はないものの、歴史的事実とその制度的文脈を慎重に検討すれば、ワトソンの行為を一義的に『不正』や『搾取』と断じることは過剰であり、誤解を生みやすいです。人格的批判と科学的評価は峻別する必要があり、両者を混同して歴史を単純化することは避けるべきです。
まず前提として押さえておくべきは、1950年代初頭の英学界における研究文化です。当時は今日のような明文化された研究倫理や著作権・データ管理の慣行が未整備で、同一組織あるいは同じ評議会(MRC)傘下の研究者間での報告書や予備データのやりとりは一般的かつ緩やかでした。研究情報は現在ほど「機密」扱いされておらず、制度的に閲覧可能な報告書がしばしば共有されました。
盗み見?
こうした制度的背景のもとで、いわゆる「盗み見」神話を検証すると次のようになります。ロザリンド=フランクリンとレイモンド=ゴスリングが撮影した湿潤型DNAのX線回折写真(「photo51」)は、らせん構造を強く示唆する重要な証拠でした。しかしこの写真がワトソンの手に渡った経路は、単なる彼がこっそり盗んだものではないのです。キングズカレッジ内で写真を目にしたウィルキンスらの関係者が、ケンブリッジを訪れていたワトソンにそれを見せたことが決定的な視覚的示唆を与えたのであり、ここには「見せられた」側と「盗んだ」側という責任の単純化はそぐわない事情があります。
さらに、マックス・パーフッツが関与した点も重要です。パーフッツはMRCの公式報告書にアクセスできる立場にあり、そこに記載されていたフランクリンの結晶学的数値(単位格子や対称性、密度など)をワトソン=クリックに示しました。これらの数値はモデル構築にとって決定的な補助情報になったものの、当該報告書はMRC傘下で準公的に共有され得る資料でした。パーフッツの行為は意図的な情報漏洩ではなく、当時の制度的慣行に沿った情報提供であったものです。
発表
このような経路で得られた断片的なデータと視覚的な示唆を、ワトソンとクリックは理論的模型的手法で大胆に統合し、二重らせんという構造モデルを導出したのでひた。ここで重要なのは、フランクリンの研究姿勢が慎重な実験主義であった一方、ワトソン=クリックがモデル主義的アプローチを採った点です。フランクリンはデータの精度と解析の慎重さを重んじ、充分な裏付けを得るまで仮説を前面には出さなかったのでした。対照的にワトソン=クリックは手持ちの断片を統合して仮説を提示し、そのモデルの妥当性を実証的に検証するという研究哲学をとったのです。この差が、発見という結果に至る上で決定的な役割を果たしたのでした。
1953年4月の『Nature』同号における三本立ての掲載も、しばしば誤解されやすい点です。ワトソン=クリックの論文の直後にウィルキンスら、そしてフランクリン=ゴスリングの論文が並列して掲載されており、学術界においてフランクリンのデータは発表当初から参照され、評価されていまひた。したがって「抹消」や「黙殺」といった語は事実を過度に単純化します。もちろん学術的評価と公的な名誉や社会的待遇は別問題であり、当時の学問制度は男性中心的で女性研究者が正当に位置づけられにくい構造的問題を抱えていたことは否定できません。
評価
また現代の倫理基準を過去に遡って厳格に適用することは、歴史的理解を歪める危険があります。著作権や研究倫理は社会的に形成される制度(利益自体が文脈依存的)であり、その規範は時代によって変化します。したがって、ワトソン個人の人格的欠点(差別的、ミソジニー的発言など)を理由に、その科学的行為全体を「不正」とするのは、本来の歴史的検討の目的を逸脱します。正しくは、当時の制度と慣行を踏まえて各行為を再構成し、誰がどの情報をどのような経路で得たか、そしてその経路が当時の制度的枠組みの下でどのように正当化され得るかを検討することです。
まとめれば、ワトソンは人格的には問題のある側面を持っていたが、DNA二重らせんの発見過程における彼の行動は、当時の研究慣行と制度的条件を踏まえると決定的な不正には当たらないものです。一方でフランクリンの貢献は決して歴史から消え去ったわけではなく、同時代から学術的に重大視されていました。したがって、この問題は単純な「加害-被害」の図式に還元するのではなく、制度史的方法論的差異を手がかりに再評価されるべきです。



コメント