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栄養学、環境的負荷
ヴィーガニズムに関して。 栄養学的な明確なリスクはビタミンB12で、これはサプリが必須。鉄、ビタミンD、カルシウム、オメガ三脂肪酸は食事で摂れるもののサプリ推奨、たんぱく質などは豆類、穀類、種実など食事で十分カバーできる感じですね。
生産と消費が完全菜食だけになったら、供給は追いつくのかは、追いつくどころか、むしろ効率的になります。畜産のメタンなどの環境負荷は有名ですが、カロリー変換効率が植物性中心だと飼料→家畜→消費の家畜の部分を孕まないため、植物中心のほうが9倍ほど優位です。土地や水資源の利用も植物のほうが利用リソースが大幅に軽微。ただ乾燥地帯など牧畜以外に適さない環境の人の暮らしへの配慮と農業インフラ強化が必要になる感じです。
ヴィーガニズムの聖典(?)、理論書と論者
ヴィーガニズムの聖典というと難しいですが、もともとヴィーガニズムは菜食主義のなかのバリエーションで、動物への倫理的配慮を動機にして動物性食品、商品を排するムーブメントとしてあり、ネットの反出生ヴィーガンみたいに共感ベースの実践で理論的整合性をあまり重視しない人も多いけど、一般にこんにちてきな倫理学的基礎づけとしての古典はシンガー、トム=リーガン、フランシオンに求められます。
誤解されやすいのが、シンガーが動物倫理、ヴィーガンの中心みたいな発想を抱かれやすいことで、シンガーは高次の表象、推論能力を指標に、人間、特に高次のそれを持つ哺乳類や鳥類、その他哺乳類や鳥類、魚、爬虫類・両生類、昆虫類などといった順でより重い道徳的地位と配慮のグラデーションの根拠を考えていて、人間には権利にあたるような特権的強い地位を認めていて、人間中心主義を堅持して条件付きの畜産&屠殺を認める立場で、アニマルウェルフェアの急進派に位置づけられるスタンスです。それは動物倫理の主流派でもないしヴィーガニズムと往々にして相容れないものである感じです。 レーガン、フランシオンはアニマルライツの論者で、哺乳類や鳥類が持つ高次の表象、推論能力を権利の根拠とし、人間の特権的なそれをあくまでもより重い責任の契機として見る感じです。魚、爬虫類、両生類などは権利まで認めうるかは解剖学的見地から経験的に想定される意識的苦痛経験の有無から判断が分かれ(フランシオンのほうがラディカルなので認める傾向が強いがレーガンはそう考えない場面も多い)、虫とか無脊椎動物に権利まで認めるのは難しいがある程度の配慮が望ましい、くらいのスタンスがとられうる。
なので、一般的な知名度としての聖典はシンガー『動物の解放』だけど、シンガーはアニマルライツの論者でも動物倫理の主流派でもない一方で知名度が圧倒的で邦訳も充実してるので初学者はむしろそれに注意する必要がある感じです。レーガン、フランシオンは邦訳がほとんどないから、動物倫理の概説書、入門書を広くリサーチして、その主張とか理論構造を把握して、根性あったら原典にあたる感じかなって思います。入門には伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』はオススメだけどあとは数少ない邦訳のレーガン『動物の権利=人間の不正』、動物の権利入門: わが子を救うか、犬を救うか』かね。ただレーガンのは少し難しいかも。
ヴィーガンと動物倫理の関係
ヴィーガンと動物倫理の関係で混乱するのは1.ヴィーガンは道徳的動機からの完全菜食主義だが、実践が本質的定義、2.そうした運動を現代の洗練された規範倫理から理論的に基礎付けたのが功利主義のシンガー、義務論のレーガン・フランシオン、3.シンガーもレーガンも、理論的に完全菜食でもない、などの理由があります。
フランシオンは昆虫食は完全に否定しないけど、制度的に組み込むことはネガティブな感じ。とはいえフランシオンも理論的にそこまで強く拒絶する根拠もないとは思います。
レーガンは昆虫とか貝類まで権利を認めないし、爬虫類、両生類、魚はグレーで現状権利主体としてまでは認めないが、ある程度配慮する。
シンガーは、そもそも条件付きで屠殺を認めるアニマルウェルフェアの急進派で、ベンサム以降の功利主義で周縁化された動物の地位にベンサム同様配慮する感じです。
家畜の滅亡
家畜が滅亡するのはいいのかみたいなことは、一般に遺伝子の適応度最適化の論理によって選好がある程度決定づけられる傾向は生物にあるものの、その主体の意識的経験としての幸福とそのような遺伝子の論理の一致は人間ではあるレベルで起こり得るけど、ほかの哺乳類や鳥類では経験的に考えにくいし、家畜のような奴隷的な、絶えざる暴力と支配と搾取に満ちた隷属的な苦痛に溢れた生なら人間であれ動物であれ、ない方が望ましいといいうるから、畜産がそのような営為であれば、種としての家畜動物の滅亡は動物倫理の方面から強く否定されるものではない、みたいな感じですかね。
種の繁栄に倫理的根拠を見いだすと、ファシズム、優生思想、種のさらなる繁栄のための非道な生物実験、遺伝子組み換えを棄却しにくい感じ。
まず種の繁栄というロジックは現代倫理学で功利主義でも義務論でも(というか古典的なそれでも)およそ正当化し得ないものです。シンガーのようなアニマルウェルフェアの論者が条件付きで畜産を容認するのは、先に述べたように人間にその高次の表象、推論能力を根拠に特権的に強い主体としての道徳的地位を認め、もし動物に意識的苦痛を味あわせないアプローチがあるならば、人間の特権的地位に鑑みてそのような条件付きで屠殺、畜産は認容されうる、というロジックです先に言ったような意味で、シンガーは、その種の主体の意識の経験科学的特徴や人の将来志向性に道徳的重みの基盤を置くのですが、将来志向性は種の繁栄とは別の指標で、この時期の反実在論的なシンガーの倫理学において、経験的に基礎づけられるそのような人間の認知的特性にその基盤を置く感じです種の保存そのものに道徳的規範性を認めるのは、一部の共同体主義や極端な非認知主義における相対主義を設定すれば理論的に正当化しうるものの、それ自体ほとんど支持される立場ではない感じで、シンガーもそういうスタンスにコミットして屠殺を条件付きで認めてるのではないですね。
共同体主義から種の保存を正当化しようとすると、1.共同体の共通善やそのアイデンティティの根拠としての生物多様性、2.「人間—動物—環境」の相互依存関係とみなす共同体存続の根拠としての「種の保存」、3.自己物語に不可欠な要素としての種との関係性から正当化される種の保存、みたいな方向が考えうるけど、徳倫理学それ単体では動物倫理やヴィーガニズムとあまり相性がよくないでしょうね徳倫理メインだと道徳的主体を人間に設定するため、アニマルライツやヴィーガニズムとのコミットは完全に限界がありますね。レーガンとかフランシオンも補助的に徳を使う程度ですね。 広く環境倫理だと、ロマン主義的宗教的なエコロジー思想とは徳倫理は相性いいかなと思います。
外来種問題
あとよく聞かれる外来種への対応は、シンガーの場合、かなり妥協的に駆除を容認しうるけど、レーガンとかフランシオンでは、対象の権利を抑圧しない範囲での捕獲、バリア設置、給餌制限、原生地への送還、避妊アプローチまでが正当化しえて、無脊椎動物を除いて駆除はほとんど容認してない感じです。
功利主義、義務論の相違と射程
シンガー、フランシオン、レーガンそれぞれの道徳的根拠について簡便に説明したので細かく見ると、いずれも、意識的苦痛の有無が道徳的地位の基礎にまずなっていて、そこからの派生が違う。シンガーは高次の表象推論能力を基準に高次の道徳的地位をグラデーション的に認め、人間のそれは特に重く、未来志向性、人格性を帯びるから代替不能であるが、意識的苦痛はありうる動物や胎児、新生児はそうでない非人格なので苦痛を経験させないという条件付きで、畜産、屠殺、安楽死を容認する。人間という種だからそのような地位が与えられるというよりは、一般的に人間はそのパーソン論からそのように位置づけられるからその地位が与えられる感じ。このあたりの事情はレーガンの生の主体論やフランシオンの権利論も同様。シンガーのパーソン論は機械的に分かりやすく実践的コストは少ないものの、レーガンやフランシオンなどから否定されています。
シンガーのパーソン論は、種の帰属よりも能力に依拠する点で人間中心主義を回避するが、それゆえに、非人格的存在に対しては結果志向的に処遇を割り切る傾向があるためです。レーガンやフランシオンは人間にシンガーが与える強い道徳的地位を権利として他の動物にも与えます。フランシオンのほうがよりラディカルに権利を認めるが、それは何を権利の指標にするかに由来します。
レーガンは意識的苦痛の経験の有無=感受性と、それに根ざす生の主体性を道徳的権利の根拠とみます。生の主体とは意識があり感覚、欲望、信念、意図、記憶などの精神的性質をもち、「自己の生」にとって物事が良い悪いといえる存在は生の主体であるとします。これに該当するのが新生児、妊娠後期胎児、哺乳類、鳥類、一部魚類。両生類、爬虫類は微妙、昆虫などは厳しい。
レーガンはWorse-off principle(ワース・オフ原理)を補助的に設定し、シンガー的人間中心主義を強く否定します。道徳的に考慮すべきなのは、よりひどい状態に置かれている者(the worse-off)である、という規範で、ロールズのそれが有名ですが、ある行為や政策の影響が複数の存在に及ぶ場合、「より大きな損害」や「より深刻な苦しみ」を受ける側を優先的に考慮すべきという立場です。これによって、動物に対する権利の侵害を特に深刻な解決すべき課題と設定し、シンガーの人間中心主義をネガティブにみます。
フランシオンは、さらにラディカルに意識的苦痛の有無=感受性、行為者としての自己性や欲求の表出能力を権利の根拠とみます。この場合、両性類、爬虫類などにも権利が認められますが、虫は厳しいです。
カントとベンサムの動物福祉
カントはアニマルウェルフェアに分類される立場ですが、動物を道徳的・権利主体としてのみならず、配慮の対象としての道徳的地位さえ認めません。 それでも、徳倫理的視点から人間の徳性や人格の形成に関わる問題として、動物への間接的義務を肯定します。
これに対してレーガンやフランシオンの義務論は、カント的な人間中心主義の枠組みに異議を申し立て、経験的な根拠に裏付けられた意識的快苦の有無、生の主体性といった根拠に基づき、動物に権利をも認める立場をとります。彼らはカントの徳倫理的発想自体を完全に捨て去るわけではなく、人間に課される高次の道徳的責任というかたちで、その部分を批判的に継承しています。
歴史的には、動物を快苦の主体として道徳的配慮の対象に据えたベンサムの功利主義の方が、カントに代表される古典的義務論よりもはるかにラディカルな動物福祉論を展開していたといえます。ピーター=シンガーはその流れを受け継ぎつつ、「平等な利益配慮」という功利主義的原理のもとで、制度改革的な実践も提案しています。
ただし、そうした功利主義的アプローチが抱える動物の内在的価値の軽視や、計算可能性や人間中心主義の限界といった問題も徐々に明らかになり、近年では義務論的アニマルライツの方が理論的には優勢になっている感じですね。
反出生主義
反出生だと、そもそも一般に有名なベネターの議論が功利主義を参照にする議論で、ただ一般的なそれとはまた存在しない未来の存在者への極端な配慮(功利主義者は割り引いて評価する)と、快苦の効用計算における苦痛の側面の極端な効用の強調という点で特異な前提が置かれていて、広く功利主義から支持されるわけではありません。
シフリンの制限付き反出生主義の義務論的論理がシンのような反出生主義に援用されて、不同意存在への義務によって義務論から出生を禁止しようとしたりする向きもあるけれど、それも可能存在への義務は実際の人のそれと等価に設定されることは義務論ではあまりないし理論として強固とも言えません。そこにおける同意原理ってパターナリスティックな介入(例えば殺人など深刻な危害を周りに与えかねない人間をアボリショニズム的スタンスから隔離、治療しようとしたとき、当人の同意が得られるとは考えにくい)を正当化する柔軟性に欠きます。
反出生主義=ヴィーガンみたいに誤解されるけど、レーガンとかフランシオンのような義務論系動物倫理の論者も反出生主義ではありません。
シンとかは、あと東洋思想を現代倫理と接続するモチベーションがあるからこその議論かもです。
権利論としての位相
ホーフェルドの定式化は「規範的行為者間の関係」を前提にしており、非行為者(動物や新生児など)を射程に入れるときにはメタ理論的な拡張が必要だけど、拡張はすでに理論的、実務的にも行われていて、児童や知的障害者、胎児も「権利の主体」とされるが「義務の主体」とはされません。
レーガンの権利の契機の指標としての「生の主体」は、①感受性(意識的快苦経験の有無)と②主体性(欲求、意向、計画から生を営む。あるレベルの推論、表象能力に基礎づけられる)を根拠にしているけど、権利関係における生の主体への拡張は法理として理論的にも合理的です。
フランシオンだと、①感受性を主たる根拠によりラディカルに動物へ権利を拡張するが、ホーフェルドから整理すると、レーガンの権利は請求権(↔義務)だけど、フランシオンのそれはPowerを持たない者への免除にあたります。
コースガードの動物倫理
コースガードの義務論的動物倫理はあんまり良くない気がします。
基本的にカントの徳倫理っぽい動物への間接的な義務を拡張する感じだけど、悪いわけではないけど、フランシオンやレーガンと比べて、応用力、一貫性、説明性、予測可能性、安定性、公平さなどの点において、理論的に優位に立てる点がない感じです。
単純に、カントの形式を保ちつつ動物倫理と接続する思想史的価値しか汲み取れず、規範倫理として固有の強さがあるとは思いませんでした。
レーガン、フランシオンと概ね同じような結論にはなるけど、レーガンのように動物を対等の生の主体と認めるわけでもなく、理性的存在者たる人間の徳に義務の根拠をおく人間中心の発想をカントから継承してて、また義務が徳にも依存し権利として安定的な地位を担保するわけでもない
傾向としては、間接義務を直接の義務として拡張する形で頑張ってるけど、もともとカントの間接義務の枠組みが、人間の徳に依存する義務で、それベースだと動物に安定的な地位を担保しにくい感じなきがします。
ヌスバウムの徳倫理学
ヌスバウムの動物倫理は良くないよね。やたら微温的なのもそうだけど、まず徳倫理自体が、理性的存在者たる人間を中心にする規範倫理だから、そうでない動物に適応するのは相性悪いに決まってる。前提からして人間種優位で、動物を対等な主体として捉えることが困難。
ケイパビリティアプローチのリストも、そんなものを経験の報告も困難な動物に適応して公正に設定するのは実践的に著しく困難だろう。
動物同士の繁栄の生(善)の衝突にも、うまく対応できない。善という動物に適応しにくいもので動物の生を評価するのもよくない。
動物個体にとっては、生き延びること、飢えや痛みを避けること、繁殖することいった欲求や行動はあっても、種の本質を全うしようとしているわけではないだろう。
選好功利主義の可能性
ゲイリー=バーナーの選好功利主義による動物倫理は、閾値付き功利主義や重み付き功利主義で配慮のレベルについて微修正すれば、かなり肯定 的に捉えられます。
レイチェルズはシンガーと変わらないし、フレイはシンガーよりひどいです。ホッカー、ブラント的な規則功利主義も、理論的可能性を感じます。
ゲイリー=ヴァーナーのような、洗練された選好功利主義なら、多元的選好の充足に立脚しつつ、閾値による調整による応用力・柔軟性、メタ倫理的インターフェイスなどの次元で、同等の公正さを保ちつつも、レーガン等の権利論に優位に立てる部分もあります。
権利論だとメタ倫理的なインターフェースにおける形而上学的負荷、基礎付けの困難さが課題になる気がして、バーナー自体を全面的に肯定するのでないけど、その点選好功利主義とか規則功利主義に可能性を感じます。私はクワジ実在論的自然主義だけど、権利論にコミットすることもできるけど、ちょっと形而上学的負荷が気になって、規則功利主義や選好功利主義にも期待があります。
ミルみたいに、快楽の質と徳を重視するスタンスも、転向後シンガーの快楽功利主義も、動物倫理と相性悪いです。功利主義なら、選好功利主義や規則功利主義でないと、不公正な対応になりがちです。
快楽功利主義の課題
被説明項目は1.動物の苦痛・快楽の道徳的考慮可能性(動物は快楽や苦痛を感じるのか?もしそうなら、その経験は人間のそれと同様に道徳的に配慮すべきか?)2.人間と動物の境界問題(なぜ人間の苦痛は考慮され、動物の苦痛は軽視されるのか?種差別の批判的検討)3.動物の利用における利益衝突 (人間の快楽や利益【食事・娯楽・研究】と動物の苦痛が衝突するとき、どちらを優先すべきか)ですね。
功利主義は正当性の根拠をそれにコミットすることへの合理性とそれに係る普遍化可能性,形式的平等に負うので、ベンタムがそうであったように1.2についてシンガーのいう種差別は問題で動物を実践の対象に拡大すべきという構成を導きやすいけど、その場合動物の可能な生や未来への主体的選好を尊重してなくても、幸福に支配して苦痛なく屠殺してあげることが効用を最大化する帰結になって、アニマルウェルフェアが最善ということになります。
以下はそこにおける問題点です。
“平等性の逸脱”について、快楽功利主義は、形式的平等に基づきすべての苦痛・快楽を同等に考慮すべきだが、ウェルフェアで止める場合は本質的に人間の利益が優先され、理論上の平等原則と、現実的な効用計算の帰結にギャップがあります。
“苦痛回避だけへの矮小化”について、快苦への多様な価値の還元、包摂は困難です。動物の未来指向的な選好や生存の価値を切り捨てるならば、多様な価値を包摂できていませんし、快楽功利主義に内在してそのような多様な価値を包摂するのは限界がある。
“結果としての「種差別の温存」”について、種差別を否定するのに、理論的帰結的には人間による動物の生殺与奪の支配を正当化することとなるものの、これはシンガーが批判した「種差別」と同型の再生産に落ち着くことになります。
いずれも経験機械問題のように、快楽功利主義の正当性にかかるメタ的な批判に関わるもので、それは人間の幸福な管理をも正当化しうるけど、快楽功利主義が内在的にそれに応答不能なわけではなく、ただそれはほかの規範倫理体系との応用性、公平性、包摂性、説明性に由来する正当性の比較的な優劣に関わるものかと思います。



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