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MMTはとんでも?主流派の前提
よくポストケインズやMMTはトンデモと呼ばれますがそうでしょうか。
まず、主流派とポストケインジアンの前提的相違を書いていきます。
主流派(新古典派、新古典派総合→DSGEモデル)の前提は、合理的期待、均衡志向、代表的主体です。
合理的期待とは、経済主体(家計や企業)は、利用可能なすべての情報を効率的に活用して、経済の将来を統計的に正しく予想すると仮定するものです。予想は体系的に間違わない、つまり人々の予想の平均は、理論モデルが予想する確率分布に一致するとします。
均衡志向とは、経済は市場均衡を前提に記述されるというものです。需要と供給が一致し、価格がそれを調整するというもの。多くのモデルでは「一般均衡(GE)」を基盤にし、短期的なショックがあっても経済は均衡点に戻るとされます。
代表的主体とは、経済全体を分析するために、一人の「平均的」家計や企業で振る舞いを代表させる仮定です。数理的にモデルをシンプルにするため。マクロの総体を「代表的な最適化問題」で記述できます。しかしこれは実際には所得・富・リスク選好・資本アクセスが異なる主体が相互作用しているのに、それを単一主体で代表してしまいます。分配や不平等、信用ネットワークなどを説明できません。
形式的に洗練されていて、政策分析の「共通言語」、予測的近似値としては便利ですが、実際の不況や金融危機、失業の持続性などをうまく説明できないところもあります。
ポストケインズ
ポストケインジアン(カレツキ、ミンスキー、ゴドリー、ラヴォワ、スキデルスキーなど)の前提は根源的不確実性、貨幣の内生性、需要主導成長、分配と累積過程などです。
根源的不確実性とは、将来は「確率分布すら特定できない」不確実性のもとで成り立っているとするものです。主流派と異なり、合理的期待や確率的リスクと違い、未来を統計的に正しく予測することは不可能とみます。なので投資は合理的計算よりも「期待・慣習・アニマルスピリット」に依存します。
貨幣の内生性は、貨幣は外部から与えられるのではなく、信用創造を通じて経済内部で生まれるというものです。主流派は「中央銀行が外生的にマネー供給を決める」前提が強いですが、ポストケインジアンは「銀行が貸し出しを行えば、その結果として預金が生まれ、マネーが増える」と考えます。
この点に関しては貨幣乗数理論という主流派の外生説の根拠が維持できなくなり、形式的にしか外生説を保てなくなっています。
需要主導成長とは、経済成長は供給能力や資本蓄積よりも、需要(特に有効需要)の拡大によって規定されるというものです。主流派成長論では「供給(労働・資本・技術進歩)が成長を決めますが、ポストケインジアンは「需要が供給能力を引っ張るとします。
分配と累積過程とは、所得分配の変化が投資・消費・需要に影響し、その結果がまた分配に跳ね返るという累積的なダイナミクスを重視するものです。カレツキ、カルドア=パスィネッティ型モデルなどが代表的です。分配の偏りが長期的停滞をもたらすことが導かれ、成長・不平等・金融不安定性は相互に関連した累積過程として理解されます。
主流派VSポストケインズ
不況や危機の発生メカニズム(ミンスキー型金融不安定性仮説など)を自然に扱え、実際のマクロ系列(失業、投資変動、所得分配、信用サイクルなど)と親和的です。計量的にもストック・フロー一貫モデル(SFC)で実証研究に応用できます。
MMTやポストケインズ派のほうが、柔軟で現実(貨幣と信用。期待形成と選択、均衡)に即した前提、モデルを持ち、説明力が高い場面も多いです。ただその制度記述に依拠するモデルの柔軟性(=形式的曖昧さ)ゆえに、規範的な設計や予測に関して弱さも多分にある、みたいな感じです。
「記述的(現実を説明する力)」部分ではポストケインジアンの方が強い と言えるけど「規範的・制度的(政策言説での実効性)」では主流派が優位 というのが傾向としてはあります。
先に挙げた根源的不確実性の前提に由来して、規範的な予測的モデルを提示しにくくなっています。
ポストケインズであるMMTについても、記述的理論としては洗練された説明を展開するものの、規範的な議論では論争的なものが多いです。
MMTに固有の発想
MMTに固有の発想をみていきます。
主権通貨論について。これは自国通貨を発行でき、変動相場制を採用している政府は財政的制約を受けないというものです。政府は「税や国債でお金を集めてから支出する」のではなく、自国通貨を発行して支出し、税と国債はその調整手段とみなします。「政府は家計とは違う」という主張を、制度的に明快に位置づけます。
通常の経済学では「税=政府支出の財源」ですが、MMTでは「税=通貨に価値を与える仕組み(税を払うために人々はその通貨を必要とする)」です。税は貨幣需要を創出する装置であり、財源ではなくマクロ安定化の道具なのです。
また政府債務=民間金融資産とし、政府の赤字は民間の黒字に対応する(セクターバランス論)とします。
雇用保障プログラム (JGP)は、政府が最終雇用主 となり、希望者に最低限の賃金で雇用を保証する政策です。インフレ抑制のために「失業」を使うのではなく、「公共雇用プール」を使います。
MMTは「唯一の制約はインフレ」であると明示します。政府の支出は財源ではなく「実体経済の供給能力」を超えないかどうかで判断すべき、とみます。
金融政策無効論?
MMTとニューケインジアンの違いは、金融を財政の従属変数とみる記述的モデルの点ではちがうけど、規範的な議論では主流派のニューケインジアンでも、量的緩和はそれだけでは意味ないくらいのレベルの金融政策無効論は言われていたことです。
規範的な部分の議論では、インフレや円安とか、調整弁としての金融政策をどこまで認めるかってところが違います。金融政策無効論というか、金融=財政の従属変数論で、金融に主体的な調整弁当しての役割を期待せず、ゼロ金利で固定しろって感じです。
主流派批判の要諦と課題
MMTに対する貨幣論、財政論周りの記述的モデルに対する批判は理論そのものや主流派との立場・前提的相違と主流派のそれを基礎づける経験的根拠への評価について理解が及んでなくて批判以前のものが多いけど、金融の規範記述モデルの弱さがあるのと、またインフレ周りの規範的設計の弱さはPKに固有の弱点とは思います。その辺踏まえてる人は、政策金利とかインフレ、統合政府モデルとかJGPとか、金融モデル・規範的モデルの楽観的前提を批判している感じです。
MMTの貨幣論・財政論部分に関しては「記述モデル」として経験的整合性が高く、主流派からのそこへの批判の多くは規範的金融モデルや均衡モデルに依存した理論的先入観や、伝統的な前提との不整合が大きいだけで、経験的、理論的に強く否定する要素はないとは思う。
金融モデルについて
MMT、構造的欠陥として金融、中央銀行の過小評価と金融調整の機序の矮小化が過ぎるとは思います。金融を財政の従属変数と見て、ゼロ金利で固定しろ余計なことするなで、規律的役割を財政政策に担わせるものの、極端すぎるとは感じます。
貨幣論に関しては、一般的なポストケインズとそんなに開きがなく、内生説は共通だし、貨幣の供給主体の相違はあり、財政規律に関しても一般的なポストケインジアンよりはインフレだけを制約と見る点でラディカルだけど、その立場に対して強い拒絶も起こりにくいです。



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