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JTB説とは
エドマンド=ゲティアによれば、伝統的に「知識 (knowledge)」は三条件で定義されてきました。1. 信念 (主体が「pである」と信じていること。知識は信念なしには成立しない)2. 真理 (信じられている命題pが事実として真であること。知識は「偽なる信念」には成立しない)3. 正当化 (主体がその信念を保持する十分な理由・証拠を持っていること。これがないと「単なる当てずっぽうの的中」と区別できない)です。この3条件で「知識=正当化された真なる信念 (JTB)」とされてきたとします。
これがJTB説です。
JTB説批判
しかしゲティアは、JTB条件をすべて満たしていても「知識ではない」と思えるケースがあるとしました。例えばスミスが「ジョーンズはフォードを持っている」という強い証拠を持ち、「ジョーンズかブラウンのどちらかがフォードを持っている」と信じるが、実際はジョーンズはフォードを持っていないが、偶然ブラウンがフォードを持っていた場合です。
ここで、信念は真で正当化されているものの、直感的には「知識」ではありません。つまり、推論に根拠があるものの、偶然それが当たっていた場合、知識と呼べるかというのが問題です。JTBは必要条件ではあるが、十分条件ではないのだとゲティアは考えます。
ゲティア以降の認識論
ここから認識論は二つの道に分かれました。
まず内在主義です。知識に必要な「正当化」は、主体自身がその合理性にアクセスできる形で存在しなければならない、とする立場です。ここでは信じている本人が「なぜその信念を持ってよいか」を内省的に把握できる必要があります。
主なバリエーションに基礎づけ主義 (知識は「自己明証的・確実な基礎的信念」に支えられる。デカルトなど)、整合主義 (信念の正当化は全体の整合性に依存する)があります。
懐疑論への対応や、信念の「責任性」を説明しやすいものの、アクセス可能性を要求するために過度に厳しくなりがちです。
なので外在主義のほうが傾向としては有力です。これは知識に正当化が必要だとしても、それは主体がアクセスできなくてもよい、とする立場です。重要なのは「信念が事実に適切に結びついていること」であり、本人がそのことを把握できなくても構わないとします。
信頼主義 (ゴールドマンなど。信念が「信頼できる認知プロセス」から生じているなら、それは知識になりうる)、追跡理論 (信念が真である限りで「反事実的状況でも誤らない」なら知識)があります。
日常的な知識(我々が直感的に「知っている」と言う場合)を広く正当化できるものの、本人が自分の信念の信頼性を知らなくても「知識」と言えてしまいます。
内在主義と外在主義の対立
内在主義は主体は自分の信念の根拠を把握できなければならないとします。他方で外在主義は、根拠にアクセスできなくても、信念形成プロセスが信頼できればよいとします。
内在主義は懐疑論を深刻に受け止め、厳格な基礎や整合を求めがちでふ。外在主義は懐疑論を「無視」しやすいです。例えば夢を見ていないことを自分で保証できなくても、視覚が信頼できれば十分とします。
内在主義は知識には「認知的責任」が不可欠とします。外在主義は、知識は「成功的な認知過程」の産物であり、主体の内省的責任は二次的とします。
外在主義の優位と統合
外在主義のように「信頼できる認知プロセス」を重視する理論は、ゲティア問題への解答として直感的にわかりやすく、また科学的・自然主義的アプローチとも親和性が高いです。懐疑論に対しても「夢かもしれないが、普段の知覚は信頼できる」という外在主義的な応答が強く働きます。そのため大きな潮流としては 外在主義ベースが主流です。
しかし外在主義だけだと「本人が何も根拠にアクセスできなくても知識と言えるのか?」という疑念が残ります。このため「内在主義的なアクセス要件」も部分的に取り入れる流れが出てきました。
美徳認識論 は、知識を認知的能力の成功とし、外在主義的な信頼性と反省的な自己評価の両立をします。「動物的知識」と「反省的知識」という二段階モデルを提案するものです。
アンチラック認識論は、知識には「偶然ではない」ことが必要とします。信頼性(外在主義)と正当化の意識的アクセス(内在主義)を組み合わせるものです。
参考文献
・上枝美典『現代認識論入門』



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