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ウィトゲンシュタインの唯我論。唯我論は無謬?

倫理,哲学
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唯我論とその問題

伝統的に唯我論は、「自我の存在のみが確実であり、他者や外界の存在は直接には証明できない」とする立場として理解されます。この立場の契機の一つはデカルト以来の懐疑論的伝統にあり、「我思う、ゆえに我あり」として確実性を自我の意識経験に還元します。しかし、ここでいう「私」は意識内容としての主観であり、その「私」から推論される外界や他者の存在は、常に疑わしさを免れません。

 しかしこの唯我論には、論理的・言語的な難点があります。それは「世界は私の意識の中にしか存在しない」という主張が、意味を持つためにすでに「世界」や「私」という語を共有的な言語体系の内部で用いているという自己矛盾です。

 すなわち、唯我論は「世界」を否定しながら、同時にその語を用いて世界について語るという構造的依存を持ちます。ゆえに唯我論は、命題的内容としての真偽を論じうる以前に、言語的に無意味な命題として退けられるべきものとなりえます。

ウィトゲンシュタインの整理

 ウィトゲンシュタインは、この唯我論的混乱を「認識論の誤り」としてではなく、「言語の構造的限界の誤読」として理解し直します。彼において問題は他者や世界をどのように知るかではなく、「世界と言語が対応しうるとはどういうことか」です。

 『論考』では、言語と世界の関係は「写像関係」として定義されます。命題は事態の論理的像であり、世界とは成立している事実の総体です。

 この体系の内部では、意味ある命題は、論理空間の内部で成立する構文的関係として定義され、命題が意味を持つのは、その形式が世界の可能な事態と対応するからです。

 ところが唯我論的命題である「世界は私の表象にすぎない」は、この写像関係を前提としながら、それを外部から俯瞰するような視点を取ろうとします。すなわち、論理空間を内部から描写しようとする言語が、同時にその外部を語ろうとするという矛盾を孕みますウィトゲンシュタインにとって、この「外部」は語りうるものではなく、ただ「示される」のみです。

 このとき『論考』における「私」の概念は、認識論的主体ではなく、論理的構造のメタ的条件として位置づけられます。

 ウィトゲンシュタイン”世界と人生とは一つである””世界の限界がすなわち私の限界である””正しく理解された唯我論は現実と一致する”としています。これらの命題において、「私」は世界内に存在する「もの」ではなく、むしろ「世界が意味を持ちうるための条件」、すなわち論理空間の地平です。

 この「私」は、命題の構文上の主語として登場しうるものではなく、命題そのものが意味を持つための構文的形式的基盤であり、存在論的項として言語内で指示されることはありません。

 ゆえに、ウィトゲンシュタインは「私を語る」ことを拒否します。「私」は語りえず、ただ示される。言語が機能するための条件として、言語の外部に位置します。したがって、「私」は心理的経験的主体ではなく、論理空間の構成的視点です。彼において「私」はカント的主観のような統覚の中心ですらなく、形式論理の地平としての言語の限界そのものです。

ウィトにとっての唯我論

 このようにしてウィトゲンシュタインは、唯我論を「誤った主張」として単に否定するのではなく、それを言語が自己の限界を示そうとする試みとして再評価します。

 彼が述べる「正しく理解された唯我論は現実と一致する」とは、唯我論的立場を真理として承認するのではなく、唯我論が最終的に指し示している限界は、論理空間そのものの構造にほかならないということを意味します。

 この転換によって、唯我論的主張は内容的命題から形式的構造へと変換されます。通常の唯我論では、「世界は私の意識の中にある」という内容的主張であるところ、ウィトゲンシュタイン的唯我論では「世界の限界が私の限界である」という形式的制約(言語の境界の指示)として整理されます。唯我論は誤った形而上学的主張ではなく、言語の自己言及的構造が生み出す限界現象として理解されます。

 ウィトゲンシュタインにおける唯我論は、もはや世界や意識に関する経験的形而上学的命題ではなく、言語の形式的制約を示すメタ的構文として理解されます。

 「私」は存在論的実体ではなく、意味ある命題を成立させるための論理空間の条件であり、言語の外部からその限界を形づくります。ゆえに、「私」は語られえず、ただ示されるのみです。この「示す」という構造こそ、唯我論が最終的に到達する地点であり、言語が自己の限界を照らし出す瞬間です。

 したがって、唯我論はウィトゲンシュタインにおいて、否定されるのではなく、論理的に昇華され、それは「語りえぬものについて沈黙せねばならない」という命題の最も純粋な形態であり、世界と私、意味と沈黙の境界そのものを形作るのです。

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