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ウォルトンのごっこ説とは。その制度論と規約主義の射程を解説。

芸術,美学
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ごっこ説

ウォルトンのごっこ説は、虚構をめぐる実践を「何が表象されているか」ではなく、「どのような行為が行われているか」という水準で捉え直した点で、きわめて洗練された虚構理論です。とりわけ、フィクションを信念の欠如や偽信念として処理するのではなく、make-believe という実践的態度の体系として記述したことによって、虚構的発話・想像・振る舞いが日常的にどのように成立しているかを、無理なく説明できる枠組みを与えました。

 この意味で、ごっこ説は本質的に虚構的行為論であり、ある種の制度記述です。その制度は、真理や正当化に関する規範的拘束力が意図的に弱く設計されている制度です。

 この点を踏まえると、ごっこ説に対してしばしば提起される「虚構にうまく参画できない人がいる」「子どもや文化的背景の異なる人には成立しないのではないか」といった反論は、理論の急所を外しています。なぜなら、虚構という制度自体が、参画能力の差異や失敗を内在的に許容するからです。

 ごっこ説は、万人に強制される規範実践を記述しているのではなく、参加可能な主体が、あるルールのもとで「〜であるかのように」振る舞う実践を記述しています。したがって、参画不能者の存在は反例というより、制度の性質そのものを確認する事例に近いです。

ごっこ説の射程

 しかし、この強みはそのまま理論的な限界にも転化します。ウォルトンのごっこ説が描く虚構的制度は、真理条件や正当化規範の拘束が弱く、外在的な誤り判定がほとんどありません。そのため、この行為論をそのまま、言語、道徳、認識といった規範的一般制度に拡張することは難しいのです。

 解釈学的フィクショナリズムも同様で、そこで扱われる「as if」は、制度の内部で完結する道具であり、主体を外から拘束する規範的力をほとんど持ちません。

 後期ウィトゲンシュタイン以降の言語ゲーム論では、意味や規範は実践形式そのものに埋め込まれており、個々の主体の態度とは独立した外在的拘束を持っています。語の使い方を誤れば、それは単にそういう遊び方もあるという話では済まされず、間違いとして指摘されます。この点が、パトナムやマクダウェルによる外在主義的拡張を可能にしているのです。意味や規範は、私たちが「as if」で仮構するものではなく、すでにそこにある実践に巻き込まれることで引き受けざるをえないものとして立ち現れます。

 これに対して、ウォルトンのごっこ説では、「as if」が意味論の中核に組み込まれています。虚構的発話や表象は、最初から本気で言っているわけではないという免責条件のもとで理解されるのです。この構造は虚構を扱うには極めて有効ですが、その代わりに、意味や規範が主体を拘束する回路を遮断ます。as if を意味論に挟み込んだ瞬間、実践は外在的規範の場ではなく、主体の態度に依存した遊戯的空間へと変質する。ここに、言語ゲーム論との決定的な断絶があるのです。

ウォルトンの過ち

 さらに問題なのは、ウォルトンがこの as if 構造を、情動の哲学にまで敷衍してしまった点です。虚構に対する恐怖や悲しみを準情動として理解する試みは、一見すると整合的に見えるものの、実際には意味論的装置を心理学的現象に過剰適用しています。情動は、信念や表象の真偽とは別の水準で、評価的・因果的・身体的条件のもとで生起するものであり、虚構対象に向けられるからといって、それ自体が as if 的である必要はないのです。フィクションに対して本当に怖がる、悲しむ、同情するという現象は、通常の情動理論の枠内で十分に説明可能であり、意味論的フィクショナリズムを持ち出す必然性はないのです。

 この意味で、ウォルトンの情動論に見られる拙さは、ごっこ説全体を否定するような致命的欠陥ではなく、理論内部で切り分け可能な問題です。虚構的行為論としてのごっこ説と、情動の哲学としての準情動論とを分離すれば、前者はそのまま維持できるし、後者はより標準的な情動理論へと回収できます。にもかかわらず、意味論の as if モードを情動にまで横断的に適用してしまったことで、カテゴリーエラーが生じているのです。

 ウォルトンのごっこ説は、虚構という制度の特殊性を見事に捉えた理論ですが、その特殊性ゆえに、規範一般や意味一般の理論としては射程が限定されています。真理や正当化の規範的拘束力をあらかじめ弱めた制度を記述している以上、そこから強い規範的実在性や外在主義的意味論を引き出すことはしにくく、そもそもその必要もないのです。だからこそ、意味論についての内在主義的批判が成立しにくいという性質は、欠点というより設計上の帰結です。

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