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レヴィナスの<顔>とは何かを解説。道徳の超越論的拘束力の条件

倫理,哲学
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レヴィナスの〈顔〉は、他者の性質や内面を表象するものでもなく、自己の投影や同一化の対象でもなく、ましてや存在論的な実体として措定されるものでもありません。それは「何であるか」を示す以前に、ある関係が出来事として立ち上がるその瞬間において、いきなり規範性だけを作動させるような契機として現れるものだったように思えます。〈顔〉は意味内容を与えるのではなく、「殺すな」「応答せよ」という拘束を、理由も根拠も与えないまま突きつけます。その意味でそれは、記述的でも認識的でもなく、端的に道徳的な出来事であり、超越論的な拘束の発火点です。

 この構図は、デリダが参照する〈正義〉のあり方とかなり近いものです。〈正義〉もまた、法や規範や制度として定式化される以前に、それらを要請しつつ、同時にそれらによっては決して充足されない参照点として現れます。どちらも、何かを「基礎づける原理」というよりは、基礎づけそのものを不安定化させながら、それでもなお規範性を放棄させない、外部的でありながら内在的に作用するような契機として理解できます。

カント、フッサールとの比較

 ここで重要なのは、レヴィナスがこの規範性を、カントのように理性の形式に依存して先験的に与えられる道徳的真理として構想していない点だと思います。カントにおいては、道徳法則は理性の自己立法という形式に基づき、普遍化可能性や形式的一貫性によって正当化されるものの、レヴィナスにおいては、そうした形式的条件そのものが疑問に付されます。道徳は、理性の内在的構造から導かれるのではなく、自己の外部から、他者の到来という出来事として侵入します。

 この点で、レヴィナスの試みは、フッサールの本質直観を反転させるものとして読むことができます。フッサールにおいては、本質は原理的に直観可能であり、直観可能性そのものが超越論的条件をなしていました。しかしレヴィナスは、その枠組みを引き受けつつも、決定的な転倒を行います。すなわち、倫理にとって決定的なのは本質が直観されることではなく、むしろ直観不可能であること、把握・同一化・表象への回収を拒むことそのものが、超越論的な条件として機能するという発想です。

〈顔〉は決して十分に見られることがなく、理解され尽くすこともありません。だからこそ、それは認識の対象にならないまま、しかし逃れがたい拘束として自己に作用します。ここでは、超越論性はもはや認識を可能にする条件ではなく、自己の自由や自己同一性を裂くようにして差し込まれる、応答不能性を伴った呼びかけとして現れます。レヴィナスが倫理を「第一哲学」と呼ぶとき、それは存在論に先行する原理を提示するというよりも、存在論そのものを成立不能にする裂け目を指し示しているように見えます。

 この意味で、レヴィナスの超越論性は、カント的な意味での形式的・構造的な先験性とはかなり異なり、むしろ出来事的で、暴力的ですらあります。他者は理解される前に、承認される前に、ただ来臨し、自己に責任を負わせます。デリダがこの構図を引き継ぎつつも、〈顔〉や〈他者〉という語すら最終的な定着を拒否し、〈正義〉をつねに遅延されるものとして語るのは、この直観不可能性をなお徹底するためだったとも言えます。倫理の条件は、把握されうる何かではなく、把握しようとするその企てを失敗させ続ける点にこそある、という直観が、ここでは共有されているように思われます。

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