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ジャンルと定義
ジャンルという概念は、芸術史や文化史のなかでしばしば「定義されるべきもの」として語られてきたものの、実際には、日常言語のカテゴリーと同じく、外延・内包・歴史的文脈・制度的実践といった多層的な次元で機能する道具的な記号装置にすぎません。
あるジャンルをめぐる議論では、往々にしてその本質や必要十分条件を定義しようとする努力が繰り返されるものの、ジャンルという語の働き自体が文脈依存的で、常に再配置と再記述の運動のなかにある以上、そのような内包的定義は原理的に困難です。
たとえば、「私小説」という語を日本文学に特有の現象として定義しようとする試みは少なくないものの、内包的特徴だけを取り出せば、類似の形式やモチーフをもつ作品は海外にも無数に存在します。それでも「私小説」という概念が一定の意味をもちうるのは、それが日本語圏の文学制度における特定の文脈的機能を果たしているからです。つまり、作家の自伝的語りと文壇的権威、読者の受容構造などが交差する場所で、ひとつの制度的実践を名指すラベルとして機能しています。
同様に「パルプ・フィクション」「ライトノベル」「B級映画」などのカテゴリーも、作品の形式的・主題的特徴によって定義されるというよりは、むしろ流通経路・市場構造・批評的評価のヒエラルキーといった外的制度において規定されています。ジャンルとは、作品の内側にある属性ではなく、作品を位置づけ、可視化し、価値づけるための社会的・経済的なメタ言語的装置です。
また、「セカイ系」や「フィルム・ノワール」のように、ジャンル名が後から付与される場合も多いです。これらの語は、ある外延的な作品群に共通する内包を仮説的に指示するものであり、しばしばその内包的特徴は曖昧で、一般的説明力を欠いています。むしろ、その呼称が生まれた後に、それを支える内包的特徴が後付けで構成され、批評的言説によって再帰的に強化されていくといえます。「フィルム・ノワール」におけるドイツ表現主義への様式的遡及などは、その典型的な事例です。ここでは、「ノワール」というラベルが、歴史的連関を意味論的に再構築する制度的解釈の装置として機能しています。
ジャンル論争を位置づける
こうした視点から見れば、ジャンル論における内包的定義をめぐる論争、たとえば「セカイ系」や「ライトノベル」をどう定義するかという議論は、しばしば語の運用実践を無視して、その記号的作用を本質主義的に捉えようとするところに問題があります。ジャンルとは、概念的に閉じた定義項ではなく、制度的実践を組織化するための可動的な語彙なです。
ジャンルをめぐる分析の焦点は、その語の「意味」を固定的に定義することではなく、その語がどのような制度的・文化的文脈で使用され、どのような実践を可能にしているかを記述することにあります。ジャンルとは、作品を仕分ける分類概念である以前に、文化的行為を媒介する記号的制度であり、その効果は文脈のなかでしか理解できないのです。
この意味で、ジャンルをめぐる批評的営為とは、語彙の内包を再定義することではなく、その語彙が作動する社会的条件と歴史的配置を明らかにすることに等しいです。言い換えれば、ジャンルとは何であるかよりも、どのように働くかを問うべき対象であり、内包的定義よりもそれを描く実践的記述の方がはるかに有効な分析手段となります。ジャンル名とは、作品の属性を表す名辞ではなく、批評・市場・制度といった外部的力の交錯点を指し示す行為の実践です。



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