始めに
精神分析と文芸批評について解説します。精神分析批評はオワコンなのかについて、解説します。
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精神分析のいま
精神分析は心理学の主流派には受け入れられていない異端派というのは常識になっていて、心理学の教科書的な著作でも、心理学史の方面でさらっと触れられるくらいになることが多いと思います。
精神分析は似非科学とまで言っていいものかは判断に困りますが、素朴心理学の親玉といった感じで、結局心理学という学問領域は扱う対象に由来して、素朴な直感から組み立ててそこまで不合理なモデルの出てきにくいジャンルであるため、精神分析の発想やフロイトなどの著作や思想に心理学の方面から注意を払うことに価値はあると思いますし、中には見込みのありそうな発想もあるとは思いますが、とはいえ精神分析が心理学のメインストリームから受け入れられているか、科学的と言えるかというと別問題です。精神分析の語彙が心理学のメインストリー厶のタームとして残っているのは「トラウマ」など限定的なものにとどまります。
文学批評の方面でも精神分析批評から距離をとる人は多く、私も分析枠組みとして精神分析を使うのは難しいと思います。
文学と精神分析
他方で文学などの芸術の場合、精神分析を前提とした作品があまりにも多いことから、結局、精神分析のテクストに触れることも避けられないと思います。
シュルレアリスムジャンルの作品など、精神分析に方法論の多くを負っていることが知られますが、芸術には精神分析を創作的背景にしたものが多いです。
こういう作品に対してどう向き合うべきかですが、そこでは宗教学、図像学などのように、精神分析を文化、ミームと捉えて、精神分析のテクストやそこから派生した芸術ジャンルを参照するなかで、作者がどのように合理性を発揮して美的再現をして表象として提示したのかを解釈さることが要請されます。
精神分析を分析枠組みとするわけではなく、それを文化として捉えて、そのなかでの実践について解釈していく感じが必要だと思います。
精神分析批評
文学の方面で、作品論、作家論に精神分析を適用して解釈する精神分析批評というものがありますが、正直これは厳しいと思います。
そもそも精神分析は文学ではなく、心理学の分野です。その心理学の方面で主流派から受け入れられていない、非科学的とされる精神分析を、心理学において門外漢な文学研究者が迂闊に分析枠組みとして手を出すべきではないと思います。まず、心理学の方面における、メインストリームの心理学の精神分析に対する支配的な見解を追認し、適切な距離をとるのが筋だと思います。
他方、読者論などアートワールドの中でのエージェントの実践に対するモデルについて、適応的選好形成などのモデルに関して精神分析の発想を参照にしたりすることも見込みありそうな気はするものの、大抵の人のキャパを超える作業になりそうです。
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