PR

デネットのクオリア批判とミリカンの心の理論批判の要諦。クオリアはどういう意味で”ない”のか

倫理,哲学
記事内に広告が含まれています。

コンテンツ

心の理論

 「心の理論」とは、他者が自分とは異なる心(意図・信念・欲求・感情など)を持っていることを理解する能力のことを指します。

 簡単に言えば「相手の考えていることや感じていることを推測できる力」です。心理学や発達研究、認知科学で重要視されます。

心の理論への批判

 ミリカンは、他者の心的状態を推測する「心の理論」が、社会的相互作用において必須の能力であるという前提に疑問を呈しています。

 ミリカンは、他者の行動を理解するために、必ずしも他者の心的状態を推測する必要はなく、行動のパターンや状況から直接的に理解できる場合があるとします。

 ミリカンは、また、心の理論が社会的に構築されたものであり、文化や言語によって形作られると考えています。心の理論が普遍的な能力ではなく、社会的文脈に依存することを強調します。

 加えて、それが複数のモジュールや認知プロセスが統合されている複雑な機能を、単一の簡単な能力として語ってしまうことにネガティブです。心の理論を「他者の信念を理解する能力」と定義するだけでは、実際の認知過程や統合プロセスの理解は伴いません。科学的には、複数モジュールの相互作用や進化的・機能的背景まで説明する必要があります。

ミリカンによる批判の要点

 ミリカンの心の理論批判は、たとえばパソコンについて「アルティメット電卓」としてざっくり理解してる人がいて、その人がさまぞまなその機能や出力結果に、「ああ、やはりこれは、アルティメット電卓だ」って信念を強化しても、対象についてまったく構造的に理解・説明してない、みたいなことです。
「アルティメット電卓」も「心の理論」も、日常会話や教育的な比喩のレベルでは有用かもしれないけど、科学の実践的語彙(実際に現象を分析・説明・予測するための用語体系)としては全然有用ではありません。

クオリア

 クオリアも心の理論と同じ、概念的問題を抱えています。

 「クオリア」とは、私たちが主観的に経験する感覚の質や感覚内容そのものを指す哲学・認知科学の概念です。簡単に言えば、「痛みを感じる感覚」「赤を見る感覚」「コーヒーの香りを嗅ぐ感覚」のように、実際に体験している「主観的な感じ」そのもののことです。

 主観的(個別性)、不可侵(還元的説明の拒否)、直接的(直接的に経験される対象)を特徴とします。

クオリア批判

 デネットのクオリアは批判は、クオリア的なもの(感覚的質)まで否定しません。クオリア概念はインフレした特権的定義(私的、直接的、非機能的、不可侵)ゆえ概念として脆弱な素朴心理学的な枠組みだから、科学の概念的道具として不要で、より洗練されたモデルに還元的に解釈、消去可能、ということです。

 クオリアは「直接的で不可錯誤的に与えられる」とされるが、実際には錯覚・記憶違い・解釈の揺らぎがあり、人は自分の経験内容にも誤ります。つまり、「内観的に絶対に正しい経験の与えられ方」というものは存在しないのです。このあたりはセラーズを継承します。

 またクオリアが「行動や認知と独立した内的性質」だとすると、それは科学的に扱えない不可視の実体を仮定することになります。デネットはこれを「二重帳簿」モデル(行動・機能による説明に加えて謎めいた内的質を想定する)としてデネットは批判します。

 そして代替モデルとして多重草稿モデルを提起します。心の内容は「脳内のさまざまな並行的プロセス(多重草稿)」によって生成され、そこに「最終的な映画のスクリーン(=純粋なクオリア)」のようなものはないのです。我々の主観的経験は、解釈や報告可能性を持つ動的な処理の副産物であって、「余剰の質的な実体」を仮定する必要はありません。

 「感覚的質」は確かに現象としてあるけど、それは複数の情報処理モジュールが動的かつ構成的に働く統合的過程の結果として自然主義的に説明可能であり、そのために「クオリア」というような、特権的で不可視な内的実体という概念を必要としない、という感じです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました