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ブルデューとイーグルトンの美学の限界。アートワールド論との比較

倫理,哲学
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ブルデューの美学

ピエール=ブルデューの文化社会学は、現代の批判理論において依然として大きな影響力を持っているものの、美学理論として見ると根源的な欠陥を抱えています。これは単に”価値を権力に還元しすぎる””主体を軽視する”という一般的批判にとどまらず、ブルデューの理論構造そのものが、制度論的にも行為論的にも精緻化し得ない硬直的な枠組みであることに起因しています。

 ブルデューの文化理論の核には、「文化資本」「ハビトゥス」「フィールド」という三つの装置があります。これらは実際には特定のローカルな事例(アルジェリアの部族社会や、戦後フランス中産階級の文化)の一般化からの構想です。それを普遍理論として提示することで、ブルデューは文化価値の変遷や創造の内部論理を扱うはずの美学を、最初から階級再生産のメカニズムとして固定してしました。この枠組みは抽象度が中途半端で、歴史横断的比較文化的に通用する制度論には発展しにくいです。

 ブルデューの理論は、価値判断をすべて”フィールド内の位置取りの戦略””象徴資本の闘争”の効果に還元します。ここでは、作家の主体的な創造行為、作品内部の形式的革新、アートワールド内部の自己組織化といった、文化生成に不可欠な要素がほとんど顧みられません。美的経験も、美的価値も、すべては階級的差異化の効果にすぎないという構造決定論が先に立ち、あらゆる創造的行為はフィールドの要請への適応として再解釈されます。

ブルデューの限界

 そのため、ブルデューは制度論的科学的枠組みとしては不完全であり、行為論や心理学的戦略性と接続させる余地がほとんどありません。美的価値が社会制度の変化の中でどのように更新されるか、アートワールドの枠組みがいかに自己反省的に変形されていくか、といったメタレベルの議論を扱う能力もないのです。

 結局、ブルデューの枠組みから得られるのは、既存の文化制度へのイデオロギー批判で、文化創造そのものの理論とするのは難しいです。これは、たとえばダントーやディッキーの制度論美学のように、”作品とは何か””アートワールドはいかに自律的規範を形成するか”を論じる理論とは比較にならないほど射程が短いものです。

 この点は、ブルデューのハワード=ベッカー批判にもよく表れます。ブルデューは、ベッカーが芸術世界の協働を天使論的に描き、権力の概念を欠くと批判します。しかし実際には、ベッカーはルーティン・制度的制約・役割配分などを分析しており、権力概念を直接導入しないことは、説明の柔軟性を保つためです。ブルデューの批判は、ベッカーの制度論的含意をほとんど理解しないまま、立場のリフレーミングに終始します。

 ハロルド=ブルームは影響の不安によって、作家が伝統の圧力にどう戦略的に応答し、新しい作品世界を創造するかを理論化しました。そこには主体の能動性、伝統の再構成、形式的革新の力学、そしてミーム論的な文化生成モデルとの高い親和性がありました。ブルデューのように価値を外的権力に還元するのではなく、創造行為そのものを主体的戦略として描く点で、ブルームは美学理論として優れます。

 ブルデューの美学は、文化を社会階層と権力の闘争に還元することで、文化創造の内在的論理を捉え損ねた不十分なモデルです。一方、アートワールド論やブルーム的主体性理論は、制度・主体・価値の三つを動的に扱うことができます。

イーグルトンの読者論

 テリー=イーグルトンの読者論は、一見するとポスト構造主義的読解理論とマルクス主義的文化批評を架橋する試みのように見えます。しかし実際には、その理論構造はブルデューの文化社会学ときわめて近い批判理論特有の硬直性を共有しており、美学あるいは読者論としての理論的射程は著しく限定されています。

 イーグルトンの枠組みでは、読者は主体的解釈者ではなく、イデオロギー的装置によって形成され、国家文化や階級的感性の効果を受動的に媒介する存在として描かれます。読書行為とは、テクストを通じて個々の主体が自由に意味を生成する創造的プロセスではなく、むしろ支配的イデオロギーが自己再生産するための経路に近いものとして理解されます。この点は、ブルデューが芸術家や鑑賞者をハビトゥスの効果に還元した構造とほぼ同型です。    

 どちらも主体の能動性や戦略性を認めず、文化的実践を権力的構造の結果として、あらかじめ決定済みのものとして扱ってしまいます。

 さらに、イーグルトンの読者論は文学形式の内在的ロジックを扱うことが苦手です。彼にとって形式は政治的社会的条件の派生物であり、読者が形式的特徴にどのように反応し、そこからいかなる美的経験が生まれるかという微細な問題には関心がありません。結果として、読みの創造性、解釈共同体のダイナミクス、あるいは読者がテクストを再構成する能動的過程など、現代の読者論が扱うべき核心的なテーマが説明不能になります。これは、ブルデューが作品の形式的創造やアートワールド内部の革新プロセスを捉え損ねた問題と、同じ構造です。

 イーグルトンの理論が抱えるもう一つの限界は、制度論的行為論的精密化がほぼ不可能である点です。オースティンやサール、さらにはアートワールド論が提供する制度的枠組みや行為論的視座は、主体や制度が自律的に創造・変形するプロセスを扱える柔軟性を持つものの、イーグルトンは読者やテクストをあくまでイデオロギーの反映装置と見るため、制度の自己変革能力や読者共同体の進化などの分析へ理論が拡張しません。

 例えばハロルド=ブルームにおいて読者は、伝統と格闘しながら自らの読みを創造し、テクストと相互作用する能動的主体です。ここにはミーム論的な文化生成モデルとも接続しうる豊かな主体性があり、読書行為そのものが創造的営為として理解されます。イーグルトンやブルデューのように価値を外的権力に還元するのではなく、価値の内在的生成を扱うことが可能である点で、ブルームの理論ははるかに美学的文学的射程が広いです。

 イーグルトンの読者論は「読者=イデオロギーの媒介者」という図式に縛られ、美的経験・解釈行為・主体性といった文学理論の中心的問題群を扱えなくなってしまっています。

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