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クワス算
ウィトゲンシュタインの『哲学探究』以来、言語行為や意味の成立を「規則遵守」の問題として捉える議論は、クリプキによるクワス算懐疑を経て、分析哲学の中で一つの極限的な懐疑として定式化されました。
クリプキの再構成によれば、これまでの使用に整合するように無限に多くの関数(規則)を想定できるため、“+”という記号を今後も加算に用いる理由も、“加える”という語が特定の操作を意味する根拠も、内的意図や個人の表象に基づいては確定できないのです。ここで浮かび上がるのは、意味や規範が内在的・意図的・心理的状態に基づくという構成主義的モデルの自壊です。
つまり、クワス算懐疑は、個人の内面における規則の理解や意図の表象が、実際の使用や共同的実践から切り離されては何の拘束力も持たないという事実を突きつけました。この懐疑はしたがって、内在主義的規約主義が孕む構造的不安定性の露呈として理解できます。
外在主義
しかし意味外在主義(パトナム、バロック、デネット、マクダウェルなど)および行為論的プラグマティズム(ブランダム、セラーズら)においては、そもそも規則に従うとは内的表象や主観的意図の確定によるものではなく、外的・社会的・機能的なパターンの中での役割付けによって確立されると考えられます。つまりある主体が「足す」という操作をしているとみなされるのは、行動の一貫性、共同体の相互承認、予測可能な反応体系の中での安定した位置づけによって定義されます。
この観点から見ると、クワス算懐疑のような”どの規則が正しいのか確定できない”という問い自体が、意味の内在主義的枠組みに固有な擬似問題であり、外在主義的な行為理論の立場からはそもそも発生しないものです。行為・環境・社会的実践が閉じた意味空間を支える基底である限り、規則遵守は確率的に最も安定な外的パターンとして自然に定義されます。
計算機科学
さらに現代的には、この外在主義的転回を計算論的な枠組みで厳密に再構成できます。クワス算懐疑が指摘するような過去の使用に一致する無限の規則候補は、機械学習や情報理論の言葉では、過剰適合や過度に複雑な仮説空間に対応します。
これに対して、最小記述長原理(MDL)やベイズ的仮説選択では、あるデータ列(過去の使用)を説明する規則のうち、記述長が最も短く、事後確率が最も高いものが選ばれます。複雑で偶発的なクワス規則は符号長が大きく、先験確率が低いため、統計的には自動的に棄却されます。
したがって、どの規則に従っているのか確定できないという問題は、情報理論的にはどの生成モデルの尤度が最大かという選択問題に変換され、懐疑の射程は確率的最適化の問題へと還元されます。ここではもはや、正しい規則を内的に確証する必要はなく、尤度やエントロピーの最小化によって意味の安定性が外的に確率的に定義されます。
このとき、「規範に従う」とは単に社会的に共有された形式を模倣することではなく、情報処理的観点から見て予測誤差を最小化し、整合的に振る舞うことを意味します。すなわち、規範とは、認知システムや社会システムがエントロピーを最小化するように構成された動的平衡の状態であり、行為合理性の自然化された指標となります。
ブランダムの言う”理由の空間”やセラーズ的”コミットメントとエンタイトルメントの構造”も、情報理論的には、ベイズ更新やMDL基準に基づく信念体系の安定性条件とみなすことができます。つまり、規範性は外的相互的な確率更新過程の中で生じる秩序であり、それを支えるのは情報理論的合理性です。
まとめ
要するに、クワス算懐疑は、意味と規範を内面の意図や主観的構成に閉じ込めたときに必然的に生じる内在主義のパラドクスです。外在主義的・行為論的・情報理論的な立場からは、この懐疑は問題としての地位を失い、むしろ自然化された規範性の理解へと転化します。
MDL・ベイズ推論・エントロピー最小化といった形式的手段は、このリフレーミングを実装的に支えるものであり、規範の安定性・意味の共有・合理的行為の基準を、内的確信ではなく確率的整合性によって保証します。
クワス算懐疑は哲学的問題というより、内在主義モデルの限界を可視化した歴史的装置であり、その核心はベイズ的自然化によって穏当に超克されています。



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