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中国語の部屋
心の哲学では、方法論的にかなり偏った思考実験が繰り返し消費されてきました。そこでは、非機能主義的結論に有利な直観をあらかじめ仕込んだうえで、素朴心理学的な「感じがする」「理解していないように思える」といった一人称的印象に訴えるだけの議論が、あたかも理論的反証であるかのように扱われがちです。中国語の部屋、クオリア反転、メアリの赤い部屋はいずれも、その典型例です。
中国語の部屋は、論証としては致命的な欠陥を抱えています。サールの議論は、部屋の中の私は中国語を理解していないからこのシステムも理解していない、という推論に依存していますが、この論法を許すなら、同型の推論がそのまま人間理解そのものを破壊します。すなわち、ニューロン一個一個には意味理解が宿っていないのだから、人間全体も理解していない巨大な中国語の部屋にすぎない、という議論が成立します。これは、構成要素レベルでの非理解から全体レベルでの非理解を導く誤謬であり、機能主義以前に、自然科学的説明一般を不可能にする自己破壊的な推論です。
サール自身は心を生物学的過程の産物とし、意識を脳の高次のエマージェントな性質と位置づけ、二元論でも機能主義的還元主義でもない立場を標榜します。しかしこの立場は、スローガンとしては穏健に見える一方で、説明論的にはほとんど空洞です。彼が擁護する内在的で私秘的な意味や本来的志向性が、いかなる進化的発生的プロセスを通じて生成され、なぜ行動制御や報告可能性と体系的に結びついているのかについて、実質的な説明を与えていないからです。エマージェンスという言葉で覆い隠されていますが、それは因果的効力を持つとされながら、機能的・計算的・進化論的説明から切り離された特権的性質として温存されており、自然化の試みとしてはきわめて不十分です。
クオリア反転とメアリの赤い部屋
クオリア反転やメアリの赤い部屋も同様に、与件の神話を前提とした直感ポンプに依存しています。クオリア反転では、行動・機能・学習・記憶・報告のすべてが同一であるにもかかわらず、内側だけが違う可能性を実在的差異として仮定します。しかしそれは、理論的にも経験的にも区別不能な差異を、ただありうるはずだという直観だけで実在化しているにすぎません。
メアリの赤い部屋に至っては、命題知・技能知・知覚的熟達といった知識概念の区別を無視し、新しい経験が新しい事実の獲得である、という前提を密輸している点で、セラーズ以降の与件神話批判を正面から無視しています。
直観ポンプとしての思考実験
これらの思考実験は、理論的制約や概念分析よりも、直観の演出を優先する方法論です。反証不能な内在的差異を設定し、でもそう感じるだろうと迫るそのやり方は、説明力や検証可能性を犠牲にして神秘性を温存する点で、ボードリヤール的なポストモダン理論と構造的に大差がないものです。
ここで対立しているのは、心的状態を公共的・機能的・第三者的に扱い、進化論や認知科学と連続的に説明しようとする立場と、心を私秘的で理論的に不可侵な与件として聖域化する立場との選択です。前者は自然化と説明可能性を重視するのに対し、後者は直観の保存と引き換えに説明を放棄します。
中国語の部屋、クオリア反転、メアリの赤い部屋は、心の哲学における与件神話の再演装置であり、論駁以前に方法論的に無効化されるべき対象なのです。


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