コンテンツ
素朴実在論とは
「素朴実在論」という語は、文脈によってまったく異なる哲学的立場を指示しうる多義的な概念です。その最初の典型的用法は、セラーズが「与件の神話」を批判した際に問題にしたような、認識論的素朴実在論です。
この立場では、世界の事物や性質が、なんら理論的媒介を経ることなく、知覚を通じて心に「そのまま」与えられると想定されています。つまり、知覚が事実の直接的な写像であり、経験がそのまま外的世界の構造を開示するという考えです。セラーズ、クワイン、デイヴィッドソンといった分析哲学の潮流は、こうした立場を「ナイーヴ」なものとして退け、観察や経験の内容がすでに概念的枠組みに媒介されているという「理論負荷性」のテーゼを強調しました。したがって、この意味での素朴実在論は、知の成立条件に関する認識論的ナイーヴさを示すものであり、形而上学的な実在の問題とは直接関係しません。
素朴な形而上学的実在論
これに対して、社会的カテゴリーや文化的構成物における「本質」の実在を想定するような立場、たとえば「男/女」といった性別属性を固定的かつ自然的に実在するものとみなす見方も、しばしば”素朴実在論”と呼ばれまし。
しかしこの場合、それはむしろ素朴な形而上学的実在論と呼ぶべきものであり、認識論というよりは存在論的・形而上学的な誤謬を問題にしています。こうした立場では、社会的・歴史的に生成されたカテゴリーを自然的・永続的な実在と取り違えることによって、構成主義や社会的実在論が示す文脈依存性を無視してしまう危険があります。したがって、セラーズが批判した「与件の神話」と、この意味での形而上学的実在論とは、同じ「ナイーヴ」という形容を共有しながらも、まったく異なる哲学的問題領域に属しています。
パトナムの素朴実在論
この二つの用法に対して、ヒラリー=パトナムが後期に自らを「素朴実在論者」と呼んだときの用法は、むしろそれらのいずれからも距離をとっています。パトナムは、かつて自らが擁護していた「形而上学的実在論」、すなわち世界には唯一の、言語や認識とは独立した完全な記述が存在し、それに対して我々の言明が真偽をもつという立場を批判し、それに代えて「内的実在論」を提示しました。
その延長線上でパトナムが「素朴実在論」という言葉に込めたのは、世界の存在を超越的に保証するような視点を否定しつつも、われわれが日常的に経験する世界を、その限りで本当に存在すると承認するという、経験の内在的リアリティに根ざした実在論でした。
この意味での「素朴実在論」は、カントの「経験的実在論/超越論的観念論」の構造に非常に近いです。カントもまた、我々の認識が物自体に直接届くとは認めず、それが時間と空間という感性的形式、および悟性のカテゴリーによって構成されるとしました。しかしその構成の内部においては、現象世界は経験的に実在し、我々が共通の経験世界として共有しうるかぎりにおいて客観的に妥当であるとします。パトナムが晩年に擁護した素朴実在論も、まさにこの意味で、経験的世界に現れる事物を実在的に肯定しつつ、形而上学的超越を退ける立場として位置づけられます。
パトナムの「素朴実在論」は、認識論的ナイーヴさを含意するものでもなく、形而上学的本質主義を是認するものでもありません。それはむしろ、経験的現実の内側で成立する客観性と真理を擁護するための、限定的かつ内在的な実在論の名です。われわれは世界をそのまま見るのではなく、また外部から見ることもできません。しかしわれわれの概念的・実践的枠組みの内部において、事物はなお現にそこにあると言えるのです。この自己限定的なリアリズムこそが、パトナムが晩年に「素朴実在論」と呼んだものの哲学的核心でした。



コメント