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マクダウェルとセラーズの遺産。カントとの関係

倫理,哲学
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セラーズの与件の神話

マクダウェルの議論は、ウィルフリド=セラーズの影響のもとにあります。

 セラーズは経験論の根本的前提である「感覚的与件」が知識の基礎を構成するという発想を「与件の神話」として批判しました。

 セラーズによれば、経験を非概念的な与件として理解することには自己矛盾があります。なぜなら、何かが認識の根拠となるためには、それ自体がすでに概念的であり、判断可能なものでなければなりません。非概念的な「生のデータ」や「印象」は、たとえ因果的に知覚を引き起こすとしても、理由としての役割を果たせないのです。なので、セラーズにとり、経験とはすでに理由の空間にあるというのです。

 しかしセラーズの議論は、別の問題を残します。「与件」を否定すれば、私たちの認識は完全に概念的、言語的構成物になり、世界との直接的接触が失われえます。この緊張を継承し、再構成したのがマクダウェルです。

 マクダウェルは、セラーズの「与件批判」を全面的に承認しつつも、その結果として残る世界の喪失という問題を解決しようとします。

マクダウェルの実在論

 マクダウェルは知覚経験を非概念的因果と概念的判断との単なる連結としてではなく、世界そのものが概念的形式で現れる出来事として再定義します。経験は単なる心の内側の出来事ではなく、世界が我々に現れる仕方であり、したがって実在に開かれた出来事です。この点をマクダウェルは経験の概念的性格と呼びます。

 経験とは世界と心の接点であり、一方でそれは感覚的で受動的であり、他方でそれは概念的で能動的です。この感受性と自発性の調和こそが、人間的理性の自然的基礎であり、それが第二の自然として表現されます。

 したがって、経験は実在から切り離された表象ではなく、実在への開かれの形式そのものです。人間の心は世界の外側に閉じこもるのではなく、概念的能力を通じて世界そのものの一部として存在します。この「開かれ」の構想は、カントの構成主義とヒューム的経験論の双方を乗り越える試みとして位置づけられます。

ブラックバーン批判

 この「開かれ」の立場を明確にするために、マクダウェルはサイモン=ブラックバーンの準実在論を批判します。

 ブラックバーンによれば、道徳的知覚的判断は世界の事実を「表す」のではなく、我々の態度や感情を表出するものです。我々はその表出を通して世界を「投影」し、あたかも客観的事実のように語るが、実際にはそれは我々の「反応的構造」の投影にすぎない、というのが準実在論です。

 マクダウェル曰く、ブラックバーンのような表出主義は、セラーズが批判した「与件の神話」とは逆の形で、世界なき理由の空間という新たな神話に陥っているとします。すなわち非概念的与件に頼る代わりに、概念的制度だけに閉じこもってしまうというのです。

 そこでは、我々の言語的実践や態度が世界を“投影”するものの、もはや世界の側からの抵抗や拘束たる実在の現れは存在しません。マクダウェルはここで、「与件の神話」と「投影の神話」という二つの対称的誤謬を見ています。

 前者は世界は非概念的に与えられるとし、後者は世界は我々の構成にすぎないとします。マクダウェルの「実在への開かれ」は、まさにこの二項対立を乗り越えます。

ギバードはどうか

 アラン=ギバードはブラックバーンを発展させ、規範表出主義を提示しました。ギバードにとって道徳的判断とは、単なる感情の表出ではなく、「どの規範を受け入れるか」という合理的態度の表明です。「殺人は悪い」と言うことは、殺人を禁止する規範体系を受け入れるという実践的コミットメントを表すのです。

 このモデルはブラックバーンよりも明確に「理由の空間」を重視し、整合性や合理性といった規範的基準を導入します。その意味で、ギバードはセラーズ的な理由の空間概念を継承しているといえます。

 しかしマクダウェルから見ると、ギバードにも根本的な限界があります。それさギバードが「理由の空間」を社会的制度の内部に閉じたものとして理解している点です。

 ギバードにおいて合理性とは、我々の間で共有された規範体系内の一貫性の問題にすぎず、世界そのものが規範的経験の中で現れるという契機が欠けています。マクダウェルにとって、真の「理由の空間」は社会的言語実践の内部に閉じるものではなく、それを通して世界に開かれている空間でなければならないのです。

カントからマクダウェルへ。第二の自然

 マクダウェルのリアリズムは「経験的実在論」とも呼べます。それはカント的物自体との断絶を拒否しつつ、世界が概念的経験の中で与えられることを肯定します。

 このとき、経験とは心的表象でも態度の投影でもなく、世界と理性の交錯する場です。

 マクダウェルの自然主義を理解するためには、彼が批判する「自然主義」と、彼自身が擁護する「自然主義」とを明確に区別する必要があります。マクダウェルが拒否するのは、科学主義的な還元主義、すなわち人間の思考や意味、価値といった現象を、物理学や生物学の語彙に完全に翻訳可能な形で説明しようとする「脱魅力化された自然」のモデルです。こうした立場はしばしば、心的・規範的・意味的な領域を自然界から切り離し、それを主観の側に押し込めてしまいます。結果として、人間の理性的活動や経験は、自然的世界の外部で起こる何かのように扱われるか、あるいは単なる神経生理的過程へと還元されます。このいずれもが、マクダウェルにとっては不十分です。

 マクダウェルはこうした行き詰まりを自然の狭義化に見出します。デカルト以来の自然観は、世界を機械論的な因果連鎖として捉える傾向があり、その枠組みの中では、意味や理由、規範といった人間固有の現象を正当に位置づけることができません。マクダウェルが提唱するのは、そのような脱魅力化された自然ではなく、アリストテレス的な意味での第二の自然を含む広い自然観です。

 この「第二の自然」とは、人間が教育や文化、言語的実践を通じて形成する習慣的・規範的な生の領域を指します。人間は単に自然的存在であるだけでなく、理性の訓練を通じて理由の空間に住まう存在となります。マクダウェルにとって、この第二の自然もまた自然の一部であり、したがって人間の理性的活動を「非自然的」と見なす必要はありません。

 この構想によって、マクダウェルは「与件の神話」を避けつつ、経験と実在との関係を再構築します。経験は、外界からの刺激を単に受け取る受動的過程ではなく、概念的能力をもった主体が世界と接する能動的な出来事です。私たちの経験は常に概念に貫かれており、そのことによって初めて世界が私たちに開かれます。この「開かれ」は、単なる主観的投影ではなく、世界そのもののあり方への感受的なアクセスです。「実在に開かれている」とは、我々の認知的実践が世界に対して閉じていないこと、すなわち、概念的経験の中で世界そのものが現れるという意味です。

 このようにしてマクダウェルは、人間的実践と自然界との断絶を回避しながら、同時に物理主義的還元をも拒否する中間的な立場を取ります。彼の自然主義は、経験や理性、価値といった現象を、自然の秩序の中に位置づけつつも、それを単なる因果的過程に還元しません。つまり彼の第二の自然の内部での理性の実現を重視する、非還元的・人文的自然主義です。この点で、デネットのような説明主義的自然主義とは根本的に異なり、むしろアリストテレス的伝統を現代的に復権させる試みとして理解できます。

 マクダウェルの自然主義は自然に人間的理性を含めて考え直す試みであり、科学主義的自然観を超えて、世界と経験、実在と意味、自然と理性を再び統合しようとするものです。

与件の神話の再構成?

 マクダウェルはカントの認識論、経験的実在論を内在的に拡張して、実在を媒介にして世界と直接関わっている(実在に開かれている)というのだけど、課題も多く、自然主義的インターフェイスもそうですが、与件の神話に回帰してるような節もあってずっと本人もその対応に苦心してて、与件を非概念的な“与え”ではなく、概念的世界の合理的制約として再定義(カントに近い)するものの、与件の神話を回避するために、概念的秩序としての世界を立てるために、それが新たな与件になってもいます。
 非概念的与件を排除した結果、「概念的秩序としての世界」が正当化の最終根拠として振る舞い始めて、セラーズが与件の神話として否定したのは「感覚的印象が認識を正当化する」という経験論的与件だったけど、マクダウェルでは世界の合理的秩序が思考を正当化するという理念論的与件に置き換わっているのです。

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