PR

脱構築とは何か。その課題とエスノメソドロジーへの解消

倫理,哲学
記事内に広告が含まれています。

コンテンツ

脱構築とエスノメソドロジー

 「脱構築」と「エスノメソドロジー」は、いずれも20世紀後半において、それ以前の実証主義的・構造主義的な思考を根底から問い直そうとした知的運動です。両者の出発点には、社会や意味の秩序を「既成のもの」として受け取らず、それがどのように生成され、維持され、崩壊するのかという過程に焦点を当てるという共通の動機があります。その分析の水準と哲学的射程においては、決定的な差異が存在しますが、接続可能性を検討します。

 デリダが脱構築の思考を展開する際に最も批判したのは、西洋形而上学が長い歴史のなかで構築してきたロゴス中心主義です。

 そこでは、言語・理性・主体・真理といった概念があたかも自然的な基盤をもつかのように想定され、他の概念(身体、欲望、偶然性、沈黙など)はその下位に位置づけられてきました。脱構築とは、こうした二項対立的秩序を外から破壊するのではなく、その内部に潜む矛盾・差延・痕跡を露呈させ、意味の構造が自己の内側で崩壊していることを示す試みです。

エスノメソドロジー

 同様に、ハロルド・ガーフィンケルが社会学的実証主義への批判として構想したエスノメソドロジーも、社会秩序を与件として受け取らず、成員自身が「日常的相互行為」の中でいかにして秩序を作り出しているかを明らかにしようとする点で、構造主義的思考からの転回を図っています。社会的現実とは制度的枠組みではなく、話し手と聞き手がその都度行う実践的推論と調整によって、不断に再生産されるものです。

 脱構築とエスノメソドロジーはともに、社会・言語・意味の秩序を静的な構造としてではなく、生成的・プロセス的な営みとして捉えるという根底の姿勢を共有します。

脱構築とエスノメソドロジーの相違

 しかし両者の方法は明確に異なります。デリダは哲学的・言語論的分析によって、テクストの内部に潜む「差延」の運動を読み取ります。これは意味が常に他の語との差異によってのみ成立し、同時にその意味が確定を延期され続けるというものです。彼の分析は、言語の自己同一性や中心的意味の存在を問い直す概念的営為であり、主として理論的形而上学的レベルでの構造批判です。

 一方で、ガーフィンケルのエスノメソドロジーは、録音データや逐語記録といった具体的な社会的相互行為を対象に、成員がどのような手続きによって秩序を生成しているかを詳細に記述し、その分析は現象学的であり、観察可能な行為や発話に根ざしています。

 このように、デリダが意味の生成条件を問う哲学的思考であるのに対し、ガーフィンケルは社会秩序の生成過程を記述する経験的社会学です。両者の対象は同型的ですが、分析の水準が異なります。脱構築が理論的分析であるのに対して、エスノメソドロジーは実践的記述の体系です。

 認識論のレベルで見ると、エスノメソドロジーは実証主義的社会学を批判しつつも、なお「観察可能な現実」という前提を残しています。社会的現実は構築されるものであるものの、それは観察者が経験的に記述しうる次元に属していると想定します。これに対してデリダは、そもそも観察可能性や言語化可能性といった前提そのものを揺さぶります。デリダにとって意味は常に差延され、痕跡によって構成されるため、経験や記述の外部に逃れます。

 この点で、デリダの脱構築はガーフィンケルよりも一段強い懐疑に立脚しています。ガーフィンケルが人々がいかに秩序を作るかを問うのに対し、デリダはそもそも秩序や意味が作りうるという前提自体がいかにして可能になるのかを問います。したがって、脱構築の認識論的ラディカリズムは、エスノメソドロジーをそのまま包含するものではありません。

理論的融和の可能性

 それにもかかわらず、両者の間には有効な接続の可能性が存在します。例えば会話分析や談話分析において、発話の修復・言い換え・沈黙などの微細なズレを、デリダの言う「差延的運動」として読み解くことは可能です。また、行政文書や裁判記録など制度的テクストの分析において、そこに潜む自己正当化や自己矛盾の構造を「脱構築的に」明らかにすることもできます。この場合、ガーフィンケル的な記述の上にデリダ的読解を重ねることになります。

 したがって、エスノメソドロジーを単に脱構築に「回収」することはできないものの、脱構築的エスノメソドロジーという形で両者を横断的に再構成することは可能です。そこでは、社会的相互行為における意味生成のズレや非対称性が、差延の運動として再解釈されます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました