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コネクショニズムとは
コネクショニズムとは、心や知能を 多数の単純な処理単位(ニューロンに類似したノード)が作るネットワークの動態として理解する心の哲学の立場です。
これは、心的過程を記号の操作とみなす古典的認知科学に対するオルタナティブとして登場し、脳の神経回路に触発された分散的並列的な情報処理を強調します。コネクショニズムによれば、知識は明示的なルール体系として表象されるのではなく、ネットワークの重みづけられた結合関係のパターンとして分散的に保存されます。したがって、学習とは結合重みの漸次的調整であり、推論とはネットワーク全体の状態遷移です。
この考え方の背景には、脳が高度な知的処理を行いながらも、構成要素自体はきわめて単純なニューロンであるという事実があります。コネクショニズムは、複雑な知性が多数の簡単な要素の接続とその変化から自律的に立ち上がるという 創発的なメカニズムを強調します。そのため、知的表象は局所的なシンボルではなく、ネットワーク全体に広がるパターンとして理解されるべきものとされます。
1980年代の並列分散処理研究はこの潮流を決定づけ、バックプロパゲーションを用いた多層ネットワークによって言語、記憶、知覚といった認知過程を説明しようとしました。現代の深層学習や大規模ニューラルネットも、このコネクショニズム的発想の延長線上に位置づけられます。
記号主義との対立
しかし、コネクショニズムは哲学的にも激しい論争を呼びました。フォドアやピンカーを代表とする記号主義的立場は、人間の思考を可能にするのは文法的構造を持つ記号表象であり、分散表象では複雑な構文や論理推論を扱えないと批判しました。彼らによれば、心的表象には組み合わせ可能性が必要であり、これはニューロン風ネットワークでは再現困難だといいます。
一方、コネクショニストは、組み合わせ構造もネットワーク動態の中から派生的に生じうると主張し、明示的なルールを仮定する古典的モデルの硬直性を批判しました。現代のニューラルネットは、大規模データから構造を学習してしまう点で、分散表象から構文的能力が創発する可能性をより強く示しています。このため、コネクショニズムと記号主義の対立は、明示的構造をどこまで必要とするのかという形で再定式化されつつあります。
二重過程理論からの考察
二重過程理論は、直観的・高速なシステム1をニューラルネットワーク的処理、熟考的・遅いシステム2を記号的・階層的処理として理解し、この両者の相補的な統合こそが人間認知の前提になると考えます。
しかしクワインや伝統的コネクショニズムは、システム1に相当する反応パターンの層を基層的条件と見なし、システム2的な記号操作までもそこに還元しようとする傾向が強く、その点に無理があります。実際には記号的処理は純粋に反応パターンから決定されるものではなく、むしろ相互的な制約の網として成立しており、下層から強固に決定されるわけではありません。コネクショニズムは深層学習やLLMにNN技術としては継承されているものの、当初の全てを分散表象で説明するという理論的野心はほとんど汲み取られず、一方でクワイン的行動主義(刺激‐反応の語彙を中心とした外在主義的な意味論)は、修正を受けつつも、LLMの訓練方式にはむしろ本質的に引き継がれています。
この意味でLLMは、技術的には古典的コネクショニズムの拡張としてNN的システム1を強化しつつ、その出力の連鎖によって擬似的なシステム2を振る舞いとして実装しているにすぎず、内部に記号階層や変数束縛の明示的構造を備えてはいません。ゆえに本来のシステム2的操作(論理的推論、明確な変数操作、階層的な概念操作)を実現するためには、ニューロシンボリックAIのように外部の記号モジュールを接続する必要があるものの、現時点でその統合は十分洗練されているとはいえません。
結局のところLLMは、高度に洗練された連想・統計的推定・パターン予測・微分可能な並列最適化によって、システム1的な認知ヒューリスティックを過剰に拡張した計算機構として機能しているのであり、人間におけるシステム1とシステム2の本来的な統合構造そのものを再現しているわけではないのです。
その限界
脳や計算機の内部状態をどれだけ観察しても、そこから“意味”や“意識の内容”を直接読み取ることは難しいです。ニューラルネットのようなコネクショニズム的なモデルは、膨大なデータとパラメータを使って入出力の関係を学習するものの、その内部に意味が格納されているわけではありません。重みや発火パターンを詳しく覗いても、それが何を表しているかは決められず、同じ状態がまったく違う内容を担うこともありえます。
この意味でコネクショニズムは、単に計算資源が足りないというだけでなく、原理的に意味論的なリソースが不足しているとも言えます。
計算機でも同じ構造が見られます。CPU の電圧状態や回路の細部をいくら眺めても、「これは猫という概念を表すビット列だ」ということは、そこからは分かりません。意味は内部状態から自然に現れるものではなく、外部の文脈や、私たちがそのシステムをどう解釈するかによって初めて成りたちます。つまり、意味は内部にある”のではなく、観察者の側の枠組みを通して立ち上がるものです。
この点をもっとも徹底的に踏まえている思想家がデネットです。デネットは、脳の内部に意識の中枢や意味を読み取る場所があるという考え方そのものを退けます。彼の多重草稿モデルでは、脳内には特権的な意識の舞台や最終的な表象の格納場所は存在せず、さまざまな処理が並行して流れているだけで、それをどう読むかは外部の解釈に依存します。信念や欲望の内容も、内部のどこかに記号的に保存されているわけではなく、行為者全体のふるまいを合理的なエージェントとして理解する過程で生まれてくる、いわば外在的で構成的な性質だとされます。
脳の発火パターンをどれほど高解像度で見ても、それが何を意味しているのかは外部の環境・文脈・行動との関係なしには決められないし、そもそも脳内部には意味が直接格納されているわけではありません。意味は、脳の外側に広がる世界との関係や、行為者のふるまいに対して私たちが与える解釈によって成立するのです。



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