PR

意図の美学と文学批評。反意図主義的ムーブメント

芸術,美学
記事内に広告が含まれています。

コンテンツ

ノエル=キャロルの制限付き意図主義

ノエル=キャロル以降の制限付き意図主義とかは規範性のなかでの合理的意図によって解釈を制約するし、アートワールド論もそれが可能になる制度論を記述しています。

 ノエル=キャロル以降の制限付き意図主義は、作者の心理事実ではなく合理的に帰属可能な制作意図という規範的構成物で解釈を制約します。これはアートワールド論(ディッキー以降)と親和的で、制度があるからこそ意図が意味を持つ、という構図を描けています。

 ノエル=キャロルが提唱した「制限付き意図主義」の画期的な点は、解釈の制約を作者のプライベートな心理的事実ではなく、公的な文脈において「合理的に帰属可能な意図」という規範的な構成物に求めたことにあります。ディッキー以降のアートワールド論と極めて幸福な親和性を持っており、特定の制度的背景があるからこそ、作者の行為が特定の意図として機能し、意味を持ちうるという意味の成立条件としての制度を明快に描き出しています。

反意図主義と規範についての文学理論

 文学理論の主流はむしろ逆方向に振り切れてきました。

 他方、ニュー・クリティシズムやテクスト論みたいな極端な反意図主義が文学理論では伝統的につよいし、制度論もイーグルトンやブルデューみたいに制度や規範性自体と対立的に構える批判理論ベースのや、フィッシャーの解釈共同体みたいにパラダイム論ベースで相対主義的なきらいがつよくて間テクスト性とはちがってアートワールドの制度の時間論的な批評的改訂を記述しうるものでもありません。

 ニュー・クリティシズムや極端な反意図主義は、「作者の意図=誤謬」という単純化、テクストを自己完結的対象に還元することで、解釈の規範性を相対化する戦略をとりました。結果として、解釈がなぜ間違いなのかを説明できないまま、精読のセンスという審美的慣習に依存することになります。

 制度論側も、イーグルトンやブルデューは、”制度=権力、イデオロギー””規範性=支配の内面化”という批判理論の枠組みを強く持ちすぎていて、制度が意味理解を可能にする条件であるという側面をほぼ記述できません。制度は暴くべき対象であって、運用され、改訂され、継承される認知的・実践的装置としては扱われないのです。

 フィッシュの解釈共同体論はさらに厄介で、「正しさは共同体内でしか定義されない」という点では制度論的だけど、その共同体が時間の中でどう変化し、自己批判され、内部基準を書き換えるのかが理論的に空白になっています。だから結局、クーンのパラダイム論的な相対主義に落ちています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました