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反出生主義を批判的に検討する。シンの義務論、ベネターの功利主義

倫理,哲学
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個人的スタンス

 

  • 動物倫理と絶対的反出生主義は不可分でも親和的でもない
  • 規範倫理として、ベネターなどの功利主義的なそれもシンなどの義務論的それも、理論的一貫性、説明性などその正当性の次元で強固とは言い難く、実際の制度における実現可能性にも乏しい。
  • 「ある条件下では出生は必ずしも望ましくない」、という制限付き反出生主義は、動物倫理でも家畜の種の絶滅の是非について検討するときに採用される理屈で、それ自体は広く規範倫理で取られうるスタンス。

ベネターのスタンス

 デイヴィッド・ベネターの中心理論は、苦痛と快楽の非対称性です。苦痛が存在するのは悪いが、快楽が存在するのは良い。しかし、苦痛の不存在は「良い」(誰にとって良いかに関わらず)、快楽の不存在は「悪くない」(誰にとっても損ではない)。よって、誰も生まれなければ苦痛はなく、快楽がなくても悪くはないので、出生は常に害を生むとします。

 この論理はすべての主体に適用されるため、人類全般に反出生主義が正当化されます。人間存在は本質的に有害であり、存在しないほうがよいとします。

アシャール=シンの義務論

 アシャール=シンは義務論ベースです。

 出生は本人の同意なく強制される行為生まれた瞬間から、死・苦痛・剥奪といった害を避けられない状況に投げ込まれます。しかしそこで、出生前に同意を得ることは論理的に不可能です。同意なしに害を強制する行為は不正義です。

 ベネターは苦痛と快楽の非対称性という帰結的な構造から反出生を導くのですが、シンは、「本人の同意なしに害を与えるような行為は許されない」という権利・同意論的な規範から反出生を導きます。実際に生まれた後に幸福があっても、それは出生行為の正当化にはならないのです。

実現可能性、応用性とメタ倫理

 反出生主義の正当性と実現可能性の次元を分けて擁護する向きもあるけど、規範倫理一般の話として現実の事例への説明性や応用可能性、制度的実現可能性はその正当性の基盤とも深く関わりうるもので、メタ倫理的スタンスにも依存する。一般に両者を素朴に分けるなら、パーフィット、シェファーランダウのような、強い認知主義や実在論にコミットしないと難しいです。

 ただそうなると、今度は自然主義とのコミットメントが難しくなり、理論に批判的な直感について進化的バイアスで棄却することや、理論の根拠となる直観の正当性が怪しくなります。 進化的道徳懐疑論(EDA)のような批判に耐えうるものではないばかりか、中途半端にそれにコミットするせいで、理論の内在的正当性自体が自壊的になるというEDAの問題は、認知主義や実在論は自然主義を手放すか、道徳的真理や道徳的事実の存在論的レベルをデフレしないと応答できません。

  ベネターは認知主義で反実在論だけど、反出生主義に否定的な直感は進化的基礎づけるんだけどそうでない支持する直観はそのバイアスから逃れて真理ドメインを参照しているとしているんだけど、そこで選択的な直感への懐疑が設定されるんだけど、進化的なバイアスで直感への懐疑を向けるなら、反出生主義を支持する直観を疑わない、またそれが真理ドメインを参照していると正当化する内在的根拠に欠いていて、その直観を根拠に非対称性の議論を基礎付けます。

 つまり認知主義でないと倫理体系の一貫性と正当性を担保できない構造なんだけど、そうなると今度はほかの認知主義から直感、直観で生への価値づけについて否定されるから自然主義で直感や直観の価値を下げるんだけど、そのせいで認知主義と整合的でなくなるのとそれが自分にも刺さるのです。

 アシャール=シンの義務論のほうがメタ倫理的防衛には優れているんだけど、そっちはそっちで義務論だから義務の応用性が功利主義より問題になるし、同意原則における未存在者を存在者と等価とみなすことの形而上学的負荷と義務のインフレによる機能不全、直観による非対称性の基礎づけに対する直観的批判への防衛がベネターよりやりにくい、同意原則的義務の応用性の弱さが正当性にとって脆弱性たりえます。

ベネターの効用計算の課題

 ベネターの議論は功利主義を参照にする議論です。ただ一般的なそれとはまた存在しない未来の存在者への極端な配慮(功利主義者は割り引いて評価する)と、快苦の効用計算における苦痛の側面の極端な効用の強調という点で特異な前提が置かれていて、広く功利主義から支持されるわけではありません。

 功利主義一般では、功利は経験に依拠するもので、快楽・苦痛が生じるのは存在する主体のみです。したがって未存在者には直接的な功利の帰属はできません。

 また功利主義者は「未存在者」への配慮を 間接的に導入します。典型的には将来の人々の期待される効用を考慮し、彼らが生まれた後にどれだけ快・苦を経験するかを見積もります。これによって出生や人口政策を評価します。加えて時間割引として、遠い将来に生まれる人々の効用は、現在の効用よりも割り引きます。例えば環境保護は、未来世代が実際に生きるときに苦しまないようにという動機で考慮するものですが、「生まれるかどうか」そのものは功利計算では中立的になりがちです。

 通常の功利主義は「快と苦を同じ土俵で総計」します。ベネターは「快の欠如はカウントしないが、苦の欠如はカウントする」という独自ルールを導入します。これは「功利の計算」と言いつつ、功利主義者にはかなり不自然に見えます。人生に莫大な喜びがあっても、出生を「悪」とします。通常の功利計算なら「大きな快楽が小さな苦痛を上回る」場合、人生は肯定されうるのに、それを認めないのです。

 また功利主義一般で前提されるように、快苦は経験する主体があって初めて意味を持つものです。未存在の主体に「快楽の欠如は悪くない」と言うのは、カテゴリー錯誤にも見えます。「存在する場合の苦痛」と「存在しない場合の無苦痛」を比較する、という構造になっているものの、存在しない場合には「誰もいない」ので、比較対象が実体を欠いています。

シンの同意原則の存在論的課題

 シフリンの制限付き反出生主義の義務論的論理がシンのような反出生主義に援用されて、不同意存在への義務によって義務論から出生を禁止しようとしたりする向きもあるけれど、それも可能存在への義務は実際の人のそれと等価に設定されることは義務論では一般的でないし理論として強固とも言えません。

 そこにおける同意原理はパターナリスティックな介入(例えば殺人など深刻な危害を周りに与えかねない人間をアボリショニズム的スタンスから隔離、治療しようとしたとき、シンは、シフリン同様、同意なきパターナリスティックな介入自体はごく限定的に認めるけど、もっぱらそれは当人の利益のために、必要最小限の介入が正当化し得ると見ていて、ここから深刻な加害をすでにしたり、またパーソナリティ障害など極端な加害性向がある人への限定的な介入も正当化は難しいです。

 シンは、未実現存在に「同意もなく産んでもらえないこと」について同意原則で素朴に正当化し得ないから、結局加害回避による義務論的非対称性の議論にコミットするけど、やはり、ベネター同様ちょっと怪しいです。

 結局、義務論的主体として未実現存在を捉えたとき、同意なく生まれさせないことによる潜在的リスク・危害性性も容易に評価できないし、非対称性の理論はこのあたりの弱さを直観に訴えるけど、結局循環的正当化になります。

 また義務論的反出生は、普遍的規範を現実のものとして制度化する過程で、同意原則と深刻に衝突します。やはりその制度に同意を得ることが困難だろうし、同意が得られない場合でも制度を正当化する根拠は、特定の倫理直観による価値付けに依存しています。

ベネターの反出生主義と直観の特徴づけ

 ベネターの反出生主義は、直観的でないのに直観で基礎づける非対称性の議論、未存在者の極端な功利計算、快苦の評価の極端な設定の直観での基礎づけなど、理論体系として洗練されてるようでいてそうでもないです。

 快の不在は悪くないだけで苦の不存在は善いのは直観による循環論法で正当化。主体や制度の文脈を無視した未存在者についてのインフレした極端な措定。反出生主義に否定的な直観を進化的バイアスで防御しようとするものの、そこに見える選好や信念への雑な認識が見えます。

 反出生主義って直観的に否定されやすいから、そのような否定的な直観への防御を進化的な適応によるバイアスで試みているんだけど、もはや直観を信じてるんだか信じてないんだか分からないです。 直観は一般的に信頼できないけど、反出生主義を支持する直観は正しいという。直感や直観(特に快苦に関するそれ)は進化的な適応としてのバイアスがあるから信頼できないけど、反出生主義を支持する直観は信頼できるから信頼できて(選択的懐疑主義)、その直観によれば快苦の非対称性は支持されるらしい特定条件下で、生物にとって出生を避けることが適応度を高めることがあり、そのために進化的に反出生主義的直感が起こり得るから、反出生主義を支持する直感や直観が進化的バイアスによるものでないとする根拠が希薄です。

 全体的にご都合主義でその場しのぎの防御壁で塗り固めたことによる一貫性の欠落での内在的矛盾と、循環論的正当化による特異な前提の正当化とで、あんまり理論が外在的だけでなく内在的にも強固とは言えません。















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