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セラーズについて
セラーズは、与えられの神話批判をしました。知識や意味は「純粋に与えられる経験的データ」から出発できないのです。すべての知識・経験は「概念的枠組み=規範的言語実践」によって位置づけられ、理解や知識はすでに「理由の空間」に属しているとします。
マニフェスト・イメージ(人間が理由や意味に基づいて生きる自己理解)と科学的イメージ(世界を因果的・理論的に説明する科学の像)があるなか、セラーズは「両者を統合すること」が哲学の使命だと考えました。
この「二重志向」こそが後の右派・左派の分岐点になったのでした。
セラーズ右派と左派
セラーズの哲学は「与えられの神話批判」や「空間的な原因説明(科学的イメージ)」と「規範的な理由説明(マニフェスト・イメージ)」の二重構造が軸になっていて、その後の哲学者たちは「セラーズをどう読むか」「どちらのイメージをどう優先させるか」で大きく分かれました。大まかにいうと セラーズ右派(デネット、ミリカン) と セラーズ左派(プランダム、マクダウェル)の対立は次のように整理できます。
右派はデネット、ミリカンなどです。強調点は科学的イメージで、自然主義、説明の因果的適応的側面を強調します。心や意味を「規範的理由」よりも「因果的機能」「適応的役割」で説明しようとします。規範や理由の言語も、最終的には進化・情報処理・機能主義的枠組みで還元的に理解可能とみなすのです。
デネットは、意図性の立場で、意図や意味は、システムを予測・理解する便宜的戦略にすぎないとします。ミリカンはテレオセマンティクスとして、意味や表象は、生物学的機能・進化的履歴によって自然化されるとします。
左派はブランダム、マクダウェルで、強調点:はマニフェスト・イメージ、規範性、理由の自律性です。人間の思考・意味・規範は、自然科学的因果説明に還元されない「理由の空間」を本質的に含むとします。自然主義に全面的に飲み込まれると、規範的な正当性や合理性の次元が失われてしまうとするのです。
ブランダムは、規範に従うことは因果ではなく「認識的権利」の問題であり、自然化できないとひます。マクダウェルは「第二自然」論をとり、人間は教育や文化を通じて自然に組み込まれるが、それは規範の空間を含む「広い自然観」なので、還元主義を拒否しつつ自然主義を守ろうとします。
デネット
デネットのスタンス(右派的特徴)には、反クオリア論があります。クオリアを否定し、意識を情報処理・機能・行動の枠組みで説明するのです。
意識を多重草稿モデルとし、意識には「最終的な舞台」がなく、並行的なプロセスの編集にすぎないとします。
セラーズの「与件なき知覚」の批判を踏まえつつ、認知科学に接続しています。言語や規範に限定せず、認知科学的自然主義をとります。
ミリカン
ミリカンは、テレオセマンティクスとして、心的表象の意味を「進化的機能」から説明します。カエルの舌打ち反射は「黒い点をハエとして表象する」機能を持つとするのです。
カエルは、視野の中を小さな黒い点が素早く動くと、自動的に舌を伸ばして捕まえようとします。カエルの視覚システムは「小さい黒い点の動き」に反応します。それが実際に「ハエ」である場合、行動は適応的に成功します(餌を得る)。しかし、同じ刺激が「黒いBB弾」だった場合、カエルは舌を出しても失敗します。
ここでポイントは、カエルの表象は「ハエ」を指しているのであって、ただの「黒い点」ではありません。なぜなら、そのシステムは「ハエを捉える」という進化的機能を持つからです。
このように「心的状態は何を表すか?」という問いを、進化的な機能=「本来そのシステムが果たすべき役割」によって説明します。カエルの表象が「黒い点」を指すのではなく「ハエ」を指すのは、その表象システムがハエをとらえるために選択されたからです。
セラーズが言ったように、心的状態には「規範的(正しい/誤り)」な側面があります。ミリカンは、それを神秘化せずに進化と機能の観点から自然化します。だから「間違った捕食」(BB弾を捕まえようとする)は、システムの「本来の機能」から説明できます。
デネットとミリカンの共通点として、クオリアや純粋内在的与件を拒否(セラーズ的批判を強化)します。また意識や意味を自然化された説明に還元し、言語ゲームではなく、生物学的・情報処理的フレームで心を説明します。
ブランダム
ブランダムは推論主義を提唱し、ウィトゲンシュタインの影響が大きいです。
推論主義は、意味を「語が推論の中で果たす役割」で定義します。「犬」という概念の意味は、「犬なら動物だ」「犬なら吠える」などの推論関係によって与えられるのです。
発話や信念は「コミュニケーションのゲーム」の中で、責務や権利を伴うもので、言語的意味とは、この規範的地位のネットワークです。
心や意味を理解するには、言語の規範的役割を第一に据える必要があるとします。知覚や意識も、最終的には言語的・推論的実践に統合されて説明されるのです。
マクダウェル
知覚経験は単なる感覚入力ではなく、すでに概念的に構造化されています。だから経験は「推論に資源を提供する」=「理由の空間(space of reasons)」に位置づけられるのです。
セラーズ同様、与件なき経験を否定します。「生の感覚データ」が知識の基礎になるわけではなく、経験は常に「概念的に捉えられたもの」としてのみ、認識に寄与するのです。
理性の働き(推論、判断)は「自然因果」とは別の「理由の次元」に属します。この「理由の次元」を消去して自然科学的に還元することはできないのです。
「自然」はふつう、物理的・生物学的な「第一の自然」を意味しますが、人間はそれに加えて、言語・規範・慣習といった「習得を通じて身につける」側面を持っているとします。人間は教育や社会的実践を通じて、規範や意味を「自然に」感じとるようになります。たとえば母語の文法、道徳的なふるまい、美的感覚などは最初は訓練が必要ですが、やがて自然な反応として身につくのです。これをマクダウェルは「第二の自然」と呼び、セラーズ的な「規範の空間」と自然主義の橋渡しを試みました。



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